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調査員オススメの逸品第176回 近江八幡市安養寺廃寺から出土した飛雲文鬼瓦

近江八幡市
図 安養寺廃寺出土飛雲文鬼瓦と近江国府惣山遺跡出土品を合成 (惣山遺跡出土品の拓本は大津市教育委員会『近江国府関連遺跡発掘調査報告書Ⅳ-惣山遺跡-』(2009年)による)
図 安養寺廃寺出土飛雲文鬼瓦と近江国府惣山遺跡出土品を合成
(惣山遺跡出土品の拓本は大津市教育委員会『近江国府関連遺跡発掘調査報告書Ⅳ-惣山遺跡-』(2009年)による)

安養寺廃寺は近江八幡市安養寺町に所在する古代寺院跡です。古くは、膳所藩の藩学を務めた寒川辰清(さむかわとききよ)が1723年に完成させた『近江輿地誌略』に寺院跡の存在が記されています。寺院建物に使われたとみられる礎石や古瓦が水田中に広範囲に分布しており、大正時代に行われた耕地整理の前には、長さ約3m・幅約1.8mで、直径1.06mの柱座が彫り込まれた巨大な塔心礎(塔の心柱を受ける礎石)もあったようですが、現在その所在は不明です。寺院の性格は地元の有力氏族が先祖の供養や一族の繁栄を願って造営した氏寺とみられ,創建年代は採集された瓦から7世紀後半と考えられます。
伽藍の中心部は水田中に一段高くなった畑地に推定されてきました。現在もその高まりが残り、礎石状の石や瓦が散布しています。平成25・26年度に県道敷設工事に伴って、この伽藍推定地から北西約700m地点で発掘調査を実施しました。この調査では、多量の瓦のほかに礎石も出土しました。調査地の近くにも礎石が分布しており、近くに古代寺院の伽藍が埋没している可能性が考えられました。とすれば、従来の伽藍推定地とは距離があるので、数百m隔てて二つの寺院跡が存在したことになります。
現在、この発掘調査の結果をまとめる整理作業を行っているところですが、出土瓦のなかに非常に興味を惹かれた遺物がありますので、ご紹介したいと思います。それは、飛雲文鬼瓦です。鬼瓦と言っても鬼の表現はなく、中央に蓮華文を配し,その周囲に尾をたなびかせて飛ぶ雲をデザインしたもので、8世紀半ば過ぎの製作と考えています。
瓦の文様は時代や地域、使用される施設の性格などによる個性があります。飛雲文は蓮華文や唐草文のように多用される文様ではありません。滋賀県内でこの文様の瓦が多く使われるのは、大津市瀬田地域に所在する近江国府関連遺跡です。近江国府とは奈良時代から平安時代前半期(8世紀中頃~10世紀後半)にかけて、近江国を治める役所が集中する地域のことで、現在の滋賀県庁周辺地域に相当します。ここから出土する軒丸瓦・軒平瓦・鬼瓦のいずれも飛雲文が施されており、とくにこの文様を好んで使っています。
安養寺廃寺の飛雲文鬼瓦は,全体の一部の破片が出土しただけでしたが、写真や拓本、さらに実物を照合した結果、近江国府出土例と同じ笵型で作られたことが分かりました(図)。また、ほかの出土瓦と比べてきめ細かい良質の粘土を使い、灰白色に焼き上げる点でも近江国府出土品と共通します。つまり、安養寺廃寺の飛雲文鬼瓦は、近江国府で使う瓦を製作した近江国府に付属する官営瓦工房の製品と考えられるのです。
近江国府の官営瓦工房で作られた瓦は、国府に関連する官衙や寺院に限って使用されました。寺院では国府の範囲内にある瀬田廃寺や、大津市石山に所在する国昌寺跡で使用されています。瀬田廃寺は近江国府に直接関連する官寺とみられます。国昌寺は、もとは有力豪族の氏寺として建立されたものが、後に定額寺(じょうがくじ)という国家から稲の支給が受けられる、いわば半官半民の寺院へと性格を変えたことが分かっています。このような事情から近江国府系飛雲文瓦が供給されたと考えられるのです。
となると,安養寺廃寺から出土した飛雲文鬼瓦は、この寺院の性格を考えるうえで重要になってきます。この鬼瓦が近江国府の援助を得て近江国府官営瓦工房から供給されたとなると,瓦が製作された8世紀半ば過ぎには安養寺廃寺が通常の豪族氏寺ではなく、公の財政援助を得られる寺院へと性格を変貌させたことがうかがえます。あるいは定額寺という寺格を得ていたのかもしれません。
残念ながら,安養寺廃寺の確実な寺院遺構は見つかっておらず、詳細はわかりません。しかし、この鬼瓦の小片は寺院の性格の一端を雄弁に語ってくれます。私は、近江国府関連遺跡の発掘調査に参加したことがあり、近江国府系飛雲文瓦には親しみをもっていたのですが、国府から遠く離れた寺院跡で国府同笵鬼瓦に出くわしたことは、新鮮な驚きでした。
(平井美典)

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