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調査員のおすすめの逸品 №342《滋賀をてらした珠玉の逸品⑲》ビアジョッキのような須恵器ー近江八幡市上出A遺跡出土ー

近江八幡市

遺跡の発掘調査においては様々な遺物が出土します。多くの場合には、出土品の中心を占めるのは「土器」です。土器は主に食事や調理、あるいは貯蔵などの場面で使用されることが多く、人々の生活と密着しているため、出土量が多く、種類も多岐にわたります。また形や製作技法がどんどん変化していくため、遺跡の年代を考える上での重要なものさしとなります。けれども時々、他ではあまり見ないような「逸品」が出土することがあります。今回はそのような「逸品」の中から、上出A(かみでえー)遺跡出土の須恵器(写真1)をご紹介します。

初期須恵器・把手付き碗
写真1 初期須恵器・把手付き碗

上出A遺跡は近江八幡市安土町にあり、縄文時代から室町時代まで断続的に営まれた集落跡です。ほ場整備などに伴って何度か発掘調査が行われてきました。今回取り上げる土器は平成9(1997)年の調査で出土しました。この土器は「須恵器(すえき)」と呼ばれる、青灰色の堅緻な土器です。日本列島では縄文時代以来、土器が作られてきました。それらは古墳時代中期(5世紀)頃までは赤褐色や褐色の焼きで軟質の土器のみでした。ところが、5世紀頃に朝鮮半島から窯で土器を焼く技術が入ってきて、それまでの軟質の土器とともに硬質の土器も作られるようになります。その硬質の土器を「須恵器」といいます。5世紀の須恵器は「初期須恵器」と呼ばれ、技術が導入された最初の頃は、主に現在の大阪府南部あたりで製作されていました。その後、古墳時代後期(6世紀)になると、各地で須恵器が作られるようになります。それに伴って遺跡から出土する量も増加していきますが、5世紀頃の初期須恵器の出土はかなり限られます。上出A遺跡では、その初期須恵器が出土したのです。
この土器が出土したのは、川あるいは泉に向かって地形が緩やかに落ち込んでいく斜面地でした。灰色の砂が15㎝程の厚さで堆積しており、その一部に1.3m×1.6mの範囲で大きさ20~30㎝程度の石が集中していて、その上に、その場で割れたような状態で発見されました(写真2)。
この須恵器は口部分の直径11.7㎝、最も直径が大きくなる部分で13.7㎝、高さ11.0㎝で、底部は平らで中央が膨らむジョッキのような姿をしています。体部中央には8条の稜線が巡っており、体部下端は板状の道具で削って形を整えています。取手は失われていますが、取り付けられていた痕跡は残っており、上端は体部に穴をあけて太さ1.3㎝程の取手を差し込んでいること、下端は差し込まずに貼り付けて固定していることがわかります。なお、写真1に写っている把手は石膏で復元したものです。また、取手上端には一対の渦巻き状の飾りがありました。その姿から「把手付碗(とってつきわん)」と呼ばれているもので、これまでの研究から初期須恵器の中でも比較的古い特徴を持っていると考えられています。

写真2 把手付き碗出土状況
写真2 把手付き碗出土状況

この土器は、出土の状況とその古さが重要な意味を持っています。まず、部分的に集中している石の上にわざと置かれたような状態であったこと。そして、これまでの調査では周辺で古墳時代中期の遺構や遺物が確認されていないため、その時期の集落が存在した可能性は低く、生活に関わるものが投棄されたとは考えにくいこと。これらの状況に加え、まだあまり流通しておらず、簡単に手に入ることはなかったであろう初期の須恵器が単独で出土したこと。これらを合わせて考えると、一般の人々が所有していたものとは思えません。おそらく、古墳時代中期にこの辺りを治めていた首長が、大阪など近畿中央部の有力者や最新技術を持った人々との関係の中で入手し、それを用いてお祭りを行ったのでしょう。
これが何を目的としたお祭りだったのかは、定かではありません。川や泉のほとりと思われる場所からの出土であることから、水の供給や水田を営む上での安定を願ったものであったのかもしれません。近江八幡市安土町の上出には、現在も豊かな水田が広がっています。その基盤が作られたのがこの土器の時代であり、そこに込められた願いが今も実りをもたらしていると思うと、このジョッキのようなちょっと変わった形の土器も、特別に見えてくる気がしませんか?
(阿刀弘史)

《参考文献》
滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会『ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書26―5 上出A遺跡』平成11(1999)年

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