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調査員のおすすめの逸品 №347ー食生活を支えた縄文人の知恵~アク抜きした”とち”の実を食す~

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写真1 外皮に覆われた”とち”の実
写真1 分厚い外皮に覆われた”とち”の実:この外皮の内側に写真2の実(種子)が1~2個入っている

実りの秋を迎え、果実や木の実が美味しい季節となりました。これらには昔から食されてきたものがある一方、現代ではほとんど食べられなくなったものもあります。“とち”の実もそのひとつです。近年では、多くは“とち餅”として、観光地や体験学習などでしか見かけなくなっており、実そのものを見たこともない方も多いかもしれません。

写真2 外皮を外した”とち”の実
写真2 外皮を外した”とち”の実:クリの鬼皮のような皮を取り除き灰汁で煮くなどしてアク抜きする

通称“とち”は和名をトチノキと言います。初秋に、大きいものでテニスボールほどの肉厚な外皮(果実)に包まれた実(種子)をつけます(写真1)。種子は、クリの実を丸くしたような姿で、色艶もクリに似ているのですが、クリはそのまま煮たり焼いたりして美味しく食べられるのに対し、トチノキは口に入れると舌がビリビリするくらいアクが強く、食用にするには灰を加えて煮るなどして、サポニン、タンニンといったアク成分を取り除く必要があります(写真2)。
琵琶湖の南端に位置する粟津湖底遺跡では、縄文時代中期の貝塚からたくさんのトチノキの実が見つかりました。この遺跡は琵琶湖の豊富な水によって植物遺体が良好に残されており、また貝塚の貝殻によって骨など動物遺体がよく残っていたことから、食生活を総合的に捉えることができました(写真3)。
詳しくみると、セタシジミなどの貝類、コイやフナなどの魚類、イノシシやシカなどの獣類、木の実などの種実類といった、多様な種類を食糧としていたことがわかりました。

写真3 粟津湖底遺跡第3貝塚全景(斜め上から)
写真3 粟津湖底遺跡第3貝塚全景(斜め上から)

次に、これらがどれくらいの割合で食されていたのかですが、それぞれに可食部(廃棄部)も異なり、単純に個数や重量、体積で比較するのは難しいので、熱量(カロリー)で比較してみることにしました。その結果、全体の半分以上が種実類で占められ、次いで魚類が約2割、貝類が2割弱、獣類が1割程の順でした。さらに詳しくみると、種実類の中でもトチノキが7割以上と圧倒的に多くを占め、次いでヒシが2割弱、イチイガシが1割程でした。トチノキについては、たくさんの割れた種子(可食部を包むカラ)片がある一方、自然状態でみられるような種子を上回る量の幼果がないことや、炭化した可食部があることなどから、食糧として利用されたこと、また重要なカロリー源であったことがわかりました(写真4)。
さて、粟津湖底遺跡には貝塚とは別に、縄文時代早期に形成された“クリ塚”があります。こちらは種実類についてはクリがほとんどでトチノキはありませんでしたが、花粉はわずかながら見つかっているので、遠方には生育していたけれども、食糧としては利用されていなかったことがわかります。
粟津湖底遺跡における縄文時代早期と同中期のトチノキの利用には、“アク抜き技術”が深く関わっており、縄文時代中期にはトチノキを大量に食糧とすることができるアク抜き技術が確立していたことを示し、同早期にはこの地域において未だその技術がなかったことを示唆しています。

写真4 第3貝塚出土”とち”の実
写真4 第3貝塚出土”とち”の実

トチノキの実は、本格的に穀物を栽培するようになってからも近代まで食され、食糧難の太平洋戦争中にも救荒食として政府によって推奨されていました。
古来より我々の祖先は、秋の恵みを心待ちにし、感謝しつつ食したことでしょう。縄文時代から食糧とされてきたトチノキと、それを食用にするためのアク抜き技術は、我々の祖先の食生活を支えてくれた逸品と言えます。                      (中川治美)

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