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新近江名所図会

新近江名所圖会 第52回 いにしえの水にまつわるお話-石樋と御澤神社-

東近江市

東近江市上平木町

現地に残る石樋 (後ろに見えるのが瓶割山)
現地に残る石樋 (後ろに見えるのが瓶割山)

近江と伊勢・美濃を結んだ八風街道(はっぷうかいどう:現在の国道422号)を近江八幡市から旧八日市へ向かい、近江鉄道平田駅の手前の線路を渡る市道に入ると広大な田園地帯が見えてきます。
この一帯は、古くから水利が悪く、水田開発が困難で、雑木などが生い茂っていた「野」の景観の「蒲生野」に相当します。この市道(東側を江岸川が並行)と西側の水田の間に、断面コ字形に加工された石材が設置されています。
水利に恵まれないこの地域の農業において、古くから灌漑用排水路の整備が急務の課題でした。特に江岸川から東側の一帯は、水の確保に苦労されていました。これを解消しようと昭和28年のほ場整備事業を皮切りに工事が進められ、昭和47年に江岸川地区の工事が開始されました。この工事中に、旧江岸川の堤防の下から花崗岩製の石材が発見されました。この石材が、市道沿いに設置されたもので、長さ2mの花崗岩の原石を断面コ字状に彫りこみ、これを上下に組み合わせて水を流す樋(石樋:せきひ)として使われました。全部で8組が見つかり、全長16mにおよぶものです。

石樋
石樋

江戸時代はじめに代官所の立会のもと、堤防下に埋設されたものとされ、集落内の川に水を引き込む用排水兼用の樋として機能したものです。この内の一組が発見の経緯を記した石碑とともに残されており、貴重な水を大切に利用した当時の人々の苦労が偲ばれます。
現在、昭和51年に完成した愛知川ダムからの幹線用水路の整備によって、灌漑に必要な水は別のルートで供給されています。
また、当協会では、平成20・21年度にこの地域のほ場整備事業に伴う発掘調査を実施しました。対象地域は伝承等から中世の屋敷跡、浄土屋敷(じょうどやしき)遺跡として周知されていました。調査の結果、縄文時代、古墳時代、平安時代、中世から近世にわたる生活の痕跡を確認できました。また、伝承どおり室町時代の堀や溝で囲まれた集落であることがわかりました。確認されました遺跡は、現在、地元の方々のご協力により大半が地下に保存されています。

おすすめPoint

御澤神社
御澤神社

この石樋の置かれた場所から西側(上平木集落の北側)の水田地帯を伏流する水が湧き出ている御澤池があります。この地域には「上沢」「下沢」「常連窪」という小字名が残っており、沼沢地であったようです。
この池を囲うように御澤神社が鎮座しています。この神社は、推古天皇12年に聖徳太子が灌漑用水用の水源地として池(すみ池・白水池・にごり池)を造られ、そのほとりに市杵嶋媛命(いちきしまひめのみこと)を祀られたことにはじまると伝えられています。
現在、通称「おさわさん」として慕われ、湧水を求めて訪れる人が絶えません。近江の名水「御沢の神境水」としても知られています。ぜひ一度、この湧水を求めて訪れてはいかがでしょう(5月上旬は、藤棚もみごとです。もちろん神社への参拝もお願いします)。

周辺のおすすめ情報

御澤神社の北西にある瓶割山(かめわりやま)の頂上(標高234m)の一の郭を中心に、北・東・南の三方の尾根に広がる複合の連郭式の山城である長光寺城(ちょうこうじじょう)があります。各尾根に掘られた竪堀により堅固な造りとなっています。
別名瓶割山城とも呼ばれますが、居城していた柴田勝家が、六角義賢(ろっかくよしかた)との戦いの折、飲料水を絶たれたにも関らず、水瓶を割って水が十分蓄えてあるように見せかけ、相手方を破ったという武勇伝によるといわれています(天正4年(1576年)の安土城築城の頃に廃城と伝わる)。

アクセス

【公共交通機関】JR琵琶湖線近江八幡駅で近江鉄道に乗り換え平田駅下車、徒歩30分
または近江八幡駅から近江鉄道バス長峰集会所行き「平木」下車、徒歩5分
【自家用車】名神高速道路八日市IC下車30分、駐車場あり


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(吉田 秀則)

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