新近江名所図会
新近江名所圖会 第165回 膳所城の忘れ形見―膳所城址と移築建物―
昨年度に、大津市膳所城遺跡の発掘調査を担当しました。今回は、この発掘調査と、それとからめて膳所城の移築建物をご紹介しましょう。
膳所城は、大津市膳所の湖岸にあった江戸時代のお城です。現在は本丸部分が膳所公園となっていて、お花見の名所として御存知の方が多いのではないでしょうか。膳所城下町のはずれで生まれ育った私にとっても、膳所公園は子供のころからの遊び場で、よく釣りにいったことを記憶しています。
膳所城は関ケ原の合戦後、徳川家康が京への備えとして慶長6年(1601)に築城し、それ以降本多氏をはじめとする譜代大名が封ぜられました。しかし、江戸幕府が滅び、明治4年(1872)に膳所城は廃城となってしまいました。本丸をはじめとする主要な施設は早々に売却され、解体されてしまったのです。お城の石垣も琵琶湖疏水等の建設資材に転用されました。そのため、現在では膳所城址に当時の建物や石垣は残っていません。
なお、念のために申しあげておきますと、現在膳所公園入口付近には城門風の建物・築地塀・堀がありますし、公園のまわりには石垣がめぐっています。しかし、これらはすべて戦後の公園整備によってあらたに建設・設置されたものです。しかも残念なことに、江戸時代当時の状態で正確に復元されたものではありません。たとえば、公園入口の「城門」は、本来の本丸入口の門の位置とは大きく異なっています。
つまり、膳所城の具体的な様相は絵図史料からある程度うかがうことができるものの、城内にあったさまざまな施設の正確な位置や内容についてはよくわからないのです。
おススメPoint
さて、今回の発掘調査は、本丸跡の北側にあった北の丸推定域で実施しました。北の丸は琵琶湖に突き出してつくられた郭です。現在は周辺が埋め立てられたうえ、ど真ん中に湖岸道路も建設され、北の丸の正確な位置・規模等はわからなくなっていました。発掘調査をおこなったところ、北の丸の南北端を検出し、おおよその位置と規模を知ることができました。残念ながら、北の丸内部については、廃城後に上部が削られ、また道路建設などによる造成がなされたために、郭内を区画する石組溝などをのぞくと、膳所城当時の建物等はほとんど残っていませんでした。しかし、調査区内からは瓦類等の多量の遺物が出土しました。
これらの瓦のなかには、城主本多氏の家紋を入れた瓦などの興味ぶかい遺物がありますが、ここでとりあげたいのは軒平瓦の端面に「九」という字を刻印したものです。これは、従来の研究成果によって、膳所御用瓦師「清水九太夫」の印である可能性が考えられています。まず間違いなく、膳所城内の建物に葺かれていたとみてよい瓦です。
周辺のおススメ情報
さて、さきに膳所城の主要な建物はほとんど残っていないと申しあげました。ただ、城内にあった建物のいくつかは廃城時に藩領内に移築されています。今回、発掘調査の報告書をまとめるにあたり、こうした移築建物についても調べておこうと、いっしょに発掘調査を担当したI先輩とともに、1日かけて建物を見学にいくことになり、はじめに調査地点に近い膳所神社(大津市膳所1丁目)の表門にむかいました。この表門は、膳所城本丸大手門と伝えられ、重要文化財に指定されています。昭和57年(1982)に解体修理が実施され、そのさいの調査によって、明暦年間(1655~1658)以前に2回の移転の痕跡があること、1回は膳所城内での移転、もう1回は大津城からの移転の可能性が指摘されています。現在、門本体の屋根瓦の大半は修理時に新調査された瓦です。しかし、門の脇の塀に葺かれた瓦をみると、古色を帯びており、一見して移築したさいに建物とともに持ちこまれた古い瓦だとわかりました。さらに詳細にみてみると、軒平瓦の端面に見おぼえのある「九」の刻印が・・・。やはり、まちがいなく膳所城時代の瓦でした。
この軒平瓦の正確な生産時期は確定できませんが、すくなくとも廃城時から約140年、おそらくはそれ以上の長きにわたり、門の屋根をまもりつづけてきた瓦なのです。普段みなれた風景のなかに、思いがけない「過去」がみえた至福の一瞬でした。
膳所神社には、表門以外にも北門・南門が膳所城から移築されたと伝えられています。膳所城については、大津市膳所支所内に膳所歴史資料室があり、膳所城関連の展示があります(不定期)。膳所神社前の膳所高校敷地には、膳所藩の藩校であった遵義堂の記念碑がありますので、あわせて見学をおすすめします。
アクセス
【公共交通機関】京阪石坂線「膳所本町」駅下車、徒歩7分。
【自家用車】湖周道路近江大橋西詰から南へすぐ。
(辻川哲朗)
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