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新近江名所図会

新近江名所圖会 第25回 源内塚-頼朝にまつわる伝承-

守山市
守山市守山2丁目
源内塚(薬師堂)
源内塚(薬師堂)

「京発ちの守山泊まり」といわれ、江戸へ向かう多くの人々で賑わった守山宿。また、ここは中山道に面した東門院の門前町としても栄えました。近年では中山道守山宿のもつ歴史資源を活かしたまちづくりが行われています。
今回は中山道から少し入ったところにある「源内塚」をご紹介します。
「源内塚」は、中山道に面した天満宮の裏手の薬師堂にあります。薬師如来の縁日である毎月8日には、たくさんの参拝者が訪れるそうです。これまでは天満宮境内から細い路地を入っていかなければなりませんでしたが、最近、天満宮西側が宅地になったので中山道からは行きやすくなりました。

おすすめPoint

薬師堂内
薬師堂内

貴族から武士へと世の中の主役が替わるきっかけとなった保元の乱(1156)。源頼朝の父、義朝は平清盛とともに戦いましたが、その後対立、3年後に平治の乱(1159)を起こします。「源内塚」にまつわるいきさつを、平治の乱を記した軍記物『平治物語』からご紹介しましょう。
12月、義朝は平氏一門が熊野詣にでた隙に挙兵しますが、舞い戻った平氏に敗れます。関東に逃れようと京から大原を抜けて堅田までたどりつきましたが、浪風高い湖を渡ることができず、勢多を経由することになります。
途中、家臣たちと別れ、義朝・嫡子義平・次男朝長・三男頼朝と近臣のわずか8騎で東国を目指しました。この時、頼朝は13歳。疲れ果てて馬上で眠ってしまい、一行からはぐれて森山(守山)宿のあたりを通りかかったのは27日の深夜のことでした。「馬の足音が聞こえるが落人か」たくさん出てきた人々の中で、源内兵衛真弘(げんないひょうえさねひろ)という者が頼朝を見つけます。「落人を捕まえ申せと六波羅よりご命令」と抱き下ろそうとしたところ、頼朝は源家の宝刀「髭切(ひげきり)」で抜き討ち、真っ向から二つに打ち割りました。
「源内塚」はこの源内兵衛真弘を哀れんだ人々がつくったと伝えられるものです。薬師堂は源内塚に建てられ、現在では石仏を首塚として供養されています。中央の「丸石」は霊験があり、願掛けをしてから持ち上げてみて、軽いと願い事が叶うそうです。よく見ると、五輪塔の「水輪」のようにみえます。「源内塚」の五輪塔の一部だったとすれば浪漫がありますが、そうではないのでしょうね。

周辺のおすすめ情報

東門院
東門院

薬師堂は、約150m南西の中山道に面した東門院が管理されています。
比叡山の東をまもるために建立されたとされる東門院は、比叡山東門院守山寺と号し、本尊は十一面観世音菩薩立像で、近江西国三十三所観音巡りの第二番札所・湖国十一面観音霊場第五番札所・近江湖南二十七名刹霊場第二十三番札所でもあります。また、護摩堂(不動堂)には、不動明王坐像(重要文化財)が安置されています。
境内には石造五重塔(重要文化財)、宝筐印塔・石造宝塔(重要美術品)があり、いずれも鎌倉時代のものとされます。江戸時代には朝鮮通信使特使が宿とされ、正徳5年(1711)5月に守山宿に掲げられた高札も残されています。近年は「守山観音様の縁日」として、毎月17日に境内で「門前アート市」、18日には本堂で「まほろば茶論(さろん)」が開かれています。
そのほかにも、付近には江戸時代の町屋を利用した「中山道街道文化交流館」や「中山道守山宿にぎわい広場」があります。にぎわい広場は今年8月に完成したもので、解説パネルや音声解説機が設置されています。解説機はハンドルを20回まわして電気を発生させるしくみになっていますので、一度やってみる価値ありです。また、12月下旬には付近一帯で「もりやまいち」が開かれます。
さらに、中山道を西に行くと“石の長者”とよばれた木内石亭のお墓がある本像寺や県内に唯一残る今宿一里塚が、東に行くと伝教大師最澄が彫ったとされる帆柱観音で有名な慈眼寺(じげんじ)[びわこの考湖学 第2部 第44回 参照]、守山宿の稲妻型屋敷割も見ることができます。

アクセス

【公共交通機関】JR守山駅から約1km。徒歩12分。近江バス「守山銀座」停留所下車
≪駅から「銀座通り」を約750mで「守山銀座西」交差点に到着。ここが「中山道」との交差点≫
【自家用車】「源内塚」は住宅地の中にあって駐車場はありません。
近くにある「にぎわい広場」の駐車場が一帯の散策に便利です。
また、東門院には駐車場がありますので、参詣のあと散策をされてはいかがでしょう。


より大きな地図で 新近江名所図絵 第1回~第50回 を表示

(大崎 康文)

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