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新近江名所図会

新近江名所圖会 第64回 紫式部も越えた深坂古道

長浜市
長浜市西浅井町塩津・福井県敦賀市疋田

近代交通網が発達するまで、琵琶湖と日本海を結ぶ物資の輸送ルートの最短経路は長浜市西浅井町塩津から深坂峠を越え、敦賀を結ぶ塩津海道でした。古代、北陸の物資は敦賀に集め、深坂峠越えで塩津に運び、塩津港から船で大津・京都に運送しました。

おすすめPoint

古道を歩いてみましょう。
塩津から国道8号を北上し、西浅井町沓掛で深坂地蔵の看板を目印に左手の山道に入ると、「塩津海道」の石碑とともに草むした深坂古道が現れます。小鳥のさえずりを聞きながら川沿いの山道を進むと、まず谷川の横の石垣が目に留まります。ここは「沓掛問屋跡」で、敦賀と塩津で物資の運送にあたる馬と馬子の交代地点といわれています。さらにヒノキやスギの植林でかこまれた緩やかな石段を上りつめると、樹木で囲まれた平地に地蔵堂がたたずんでいます。

◇深坂地蔵

深坂地蔵
深坂地蔵

お堂には「深坂地蔵」という石の地蔵尊が安置されています。
由来によると「平清盛の命で長男の越前国守の平重盛が琵琶湖と日本海を結ぶ運河を造るためこの地で試掘したところ、大岩にぶつかり、石工がその岩と打ち砕こうとしたところ腹痛を起こしてしまった。岩を起こしてみるとお地蔵さんであったため、この地に祀り、運河を掘ることを中止した」とのこと。
そのためこの地蔵尊は別名「堀止め地蔵」とよばれています。現在も子供の守り神として信仰を集め大切に護られています。

地蔵堂から林道を経て古道を進むと滋賀県と福井県の県境にある標高370mの深坂峠に着きます。峠を越えると、広葉樹林に囲まれたやや急な勾配な坂道が続きます。しばらく進むと万葉歌人の笠朝臣金村の歌碑があります。
「塩津山 打ち越え行けば 我が乗れる 馬ぞつまづく 家恋ふらしも」(塩津の山越えは厳しく私の乗った馬がつまづいた。きっと家人が私のことを思っているのであろう。)
旅のつらさを詠っています。
また、紫式部の歌碑がさらに500mほど先にあります。

◇紫式部歌碑

深坂古道と紫式部歌碑
深坂古道と紫式部歌碑

紫式部は長徳2年(996)9月に父の藤原為時が越前国守赴任時に随行しました。
紫式部が塩津山を越えるとき、輿を担ぐ男たちの「やはりこの道はいつ通っても難儀だな」との一言を聞いて詠った歌です。
「知りぬらむ 往き来にならす 塩津山 世に経る道は からきものぞと」(お前たちこれで分かったでしょう。通いなれたこの道もつらいけど、世の中の道はもっと厳しいものですよ。)
自分で歩きもせず批評をする20歳代の小生粋な紫式部の性格がよくわかる歌です。
塩津と敦賀を結ぶ深坂古道は北陸の物資の運送や人馬の往来で栄えてきました。現在はその面影を深坂地蔵に見ることができます。
西浅井町沓掛から深坂峠を越えて福井県側に出たところに敦賀市疋田があります。

◇疋田舟川用水

疋田舟川用水
疋田舟川用水

町内には敦賀運河疋田舟川の用水路跡が整備され、江戸時代の景観が復元されています。江戸幕府と小浜藩は琵琶湖疏水を計画して疋田用水を完成させました。
平清盛が試行した琵琶湖と日本海を結ぶ運河計画は江戸時代まで続きました。琵琶湖の運が計画は実現しませんでしたが、疋田用水の川舟で運ばれた米や海産物は牛車で西浅井町大浦に運ばれ、琵琶湖の水運を利用し京や大坂で消費されました。江戸時代の測量家石黒信由の記録した琵琶湖運河計画の測量図は、船着き場前の公民館で見ることができます。

周辺のおすすめ情報

塩津側では、国道8号線沿いに道の駅「塩津海道あじかまの里」があります。
「あじかま」とは「あぢかまの 塩津を指して 漕ぐ船の 名は告りてしを 逢はざらめやも」(塩津を目指して漕いでいく船の名のように、私の名を打ち明けたのだから逢わないでいられましょうか。)と万葉集にもあるように、「塩津」につく枕詞ともいわれています。
道の駅では産直のお店や琵琶湖の幸を使った料理などを楽しむことができます。

アクセス

【公共交通機関】《塩津》JR湖西線近江塩津下車
《疋田》JR北陸線新疋田駅下車
【自家用車】《塩津》北陸自動車道木之本IC下車20分、近江塩津駅前駐車場あり
《疋田》北陸自動車道敦賀IC下車15分、新疋田駅前駐車場あり


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(濱 修)

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