記事を探す

新近江名所図会

新近江名所圖会 第68回 現代に残る「過去」-大篠原の西池と堤

野洲市
野洲市大篠原

わたしたちが普段見慣れている風景のなかには,実は古代や中世,近世といった時代に造られた「過去」が存在します。というのは,長い歴史の中で,人間は前の時代の遺産を引き継ぎ,それを改変し続けてきたからです。つまり,古代の風景の上に,中世の活動が加えられ,さらに近世にそれらの上に新たな活動が刻まれ,近現代にも同様に人間活動の痕跡が残される,という幾重にも時代を異にしたレイヤー(層)が積み上げられたものが現代のわれわれが見ている風景なのです。
ですから,注意深く調べてみると,実は水田の畔,家の前の道路,山の形,近くの小川等が古代や中世にまでさかのぼる歴史を持っていることに気づきます。今回は,そんな気づきの例として,野洲市大篠原にある篠原の長堤を紹介します。

おすすめPoint

◇西池と長堤

長堤
長堤

大津から国道8号を北上し,野洲市内に入ります。大岩山古墳群の史跡公園の裏手を過ぎ,小堤・大篠原集落付近にいたりますと,山手のほう(右手)に,国道に隣接した長い堤が見えてきます。この堤は西池という池の堤防です。このあたりは,西側へ開く大きな谷状の地形で,西池はその谷の一部を堤でせき止めて作った人工的な灌漑用水池なのです。
では、西池はいつできたのか?
その答えは、文献が教えてくれます。
ひとつは、源氏と平家の盛衰興亡を叙述した軍記物語である『源平盛衰記』です。 その内容は「元暦2年(1185)5月に壇ノ浦合戦で敗れ捕われた平宗盛・清宗父子が源義経に伴われ,京から鎌倉へ護送される途中,野洲川を渡河したのち,三上山を望みながら「篠原堤」を通過して「鏡宿」(現竜王町鏡)に投宿した」と記録されています。
もうひとつは、京から鎌倉への旅程を記録した紀行文である『東関紀行』で,仁治3年(1242)に京を発した筆者が「篠原といふ所を見れば,西東へ遥かに長き堤あり」と記しています。
これらの文献にある「篠原堤」や「西東へ遥かに長き堤」が現在の堤にあたることは,篠原という地名から考えてほぼ間違いありません。このように、文献から,現在みることができる堤は,少なくとも鎌倉時代直前頃にはすでに完成していたことがわかるのです。
私は,この堤の近くにある夕日ケ丘北遺跡・大篠原西遺跡という遺跡の発掘調査を担当したことがあります。その調査では,鎌倉時代頃にかけて,付近一帯が一定の区画で水田開発した―今でいう「ほ場整備」された痕跡を確認しました。ちょうど西池の存在が確かめられる頃のことです。おそらく,西池を築造することで灌漑用水源を確保し,付近の水田開発を行ったのだろうと考えました。そうなると,西池とその堤は,現在にいたるまで800年以上にわたり,付近の水田に用水を供給し続けてきたことになるのです。

周辺のおすすめ情報

◇国道8号と中山道・東山道

堤の前には国道8号がほぼ南北に走っています。この道路も実は古い歴史があります。
近世(江戸時代)に京と江戸とを結ぶ主要街道であった旧中山道は,この国道8号をほぼ踏襲しているからです(一部ずれている部分もありますが)。さらに旧中山道は,古代国家が都と各地とを結ぶために設置した主要陸路の一つ東山道をやはり踏襲していることが歴史地理学や考古学などの研究によってわかっています。少なくとも,西池前の道路は,1000年以上列島の主要陸路の機能を果たしていたわけです。

◇篠原宿と街道集落

西池の前には,現在街道集落があります。この集落一帯には,発掘調査の結果,街道遺跡という中世の遺跡が展開していることがわかっています。『東関紀行』には,京を立った旅人が宿をとった「篠原宿」のことが記されていますが,この街道遺跡こそがこの「篠原宿」に相当するのでしょう。
現在も集落の中心を中山道が通り,それに面して家々が連なる形態は,街道が生活の中心となったいた「街村」の面影をとどめています。

◇大笹原神社

西池より北東側,国道8号線大篠原交差点を山手側へ行くと,大笹原神社があります。本殿は棟札から室町時代の応永21年(1414)建立の三間社入母屋造・檜皮葺で,国宝に指定されています。大笹原神社境内社篠原神社本殿は重要文化財です。境内は静寂に包まれ,神々しい雰囲気を感じます。

アクセス

【公共交通機関】JR琵琶湖線野洲駅下車、近江鉄道バス村田製作所行き「西池」下車すぐ
【自家用車】名神高速道路竜王IC下車20分、駐車場なし


より大きな地図で 新近江名所図会 第51~100回 を表示

(辻川 哲朗)

Page Top