新近江名所図会
新近江名所圖会第208回 膳所六万石城下町の出入口
慶長6年(1601年)に徳川家康のよって築城された膳所城については、新近江名所圖絵165号等でご紹介しました。今回は旧東海道に設けられた膳所城下町への出入口についてご紹介します(図1)。
大津市粟津町にある粟津中学校西側の旧東海道の「粟津の晴嵐」の松並木を抜け、晴嵐の交差点をさらに北へ進み、御殿浜の住宅街に入ると道が大きく左へ屈曲します。その正面に「膳所城勢多口総門跡」の石碑があります(写真1)。ここは膳所城下町の南の入口にあたります。現在はマンションに建て替えられていますが、数年前までは膳所藩時代の番所が残っていて、その屋根には本多家の家紋の入った軒丸瓦が葺かれていました。なお、この総門の造りは高麗門(こうらいもん)で、現在は泉大津市の個人宅に移設されています。ちなみに高麗門とは、2本の本柱の上に切妻の屋根をのせ、その本柱の内側にそれぞれの控柱を立てて、それぞれ対となる本柱と控柱の間にも小さい切妻の屋根をのせた構造の門です。
さらに、御殿浜の住宅街から何度か屈曲した街道を進むと、中ノ庄の住宅街へ入り、城下町の中心である本丸町・丸の内町へと至ります。本丸町内の街道から琵琶湖側は24棟の箱形の団地に様変わりしていますが、街道沿いの所々には今なお古い街並みを見ることができます。
S銀行膳所支店の北側に残る浄土真宗の大養寺の門(写真2)は、当時の武家屋敷の面影を残す門で、長屋の建物の一部に扉を付けて門とし、門の屋根も左右の長屋と棟続きの様式を呈する「長屋門」です。また、K工務店の角には膳所城の中門の位置を示す「膳所城中門跡」と記された石碑も建てられています。
ここからさらに北へ進み、和田神社を過ぎて斜め左へ向かうと、饗忍寺(こうにんじ)の長屋門(写真3)に突き当たります。もとは膳所藩家老村松八郎右衛門の屋敷といい、大砲を据える台場と防塁が築かれていたと言われています。さらにくわえると、響仁寺の西側を流れる相模川は、もともと膳所ケ崎(現在の膳所公園付近)へむけて流れていましたが、膳所城築城に伴って堀の役目を持たせるために現在の位置へ付け替えられたと言われています。この屋敷によって街道を枡形に迂回させるとともに、堀の役目を持たせた相模川は、城下町を守る大きなポイントであったと言えます。
饗忍寺を過ぎて、左に石坐神社をみながら西に進むと、街道は右へ大きく屈曲したのち、さらに左へ屈曲します。ここに「膳所城北総門」がありました(写真4)。ちょうどこのあたりが膳所城下町の北の入口にあたります。現在は、人家の軒先に「膳所城北総門跡」と記された石碑が建てられているだけで、その面影を忍ぶことはできませんが、大きく屈曲する道の形状が城下への見通しを拒んだ証と言えます。
東海道は、ここから膳所城下の外をぬけて、「馬場」から「大津町」(現在の浜大津周辺)へと繋がっています。
◆アクセス
「膳所城勢多口総門跡」へは、京阪電車粟津駅より琵琶湖側へ徒歩5分
「膳所城北総門跡」へは、京阪電車錦駅より徒歩10分
(吉田秀則)