新近江名所図会
新近江名所圖会 第285回 明智左馬之助湖水渡り伝承の地・大津市打出浜
大津の湖上に浮かぶ滋賀県立琵琶湖文化館(大津市打出浜地先)の前には、「明智左馬之助湖水渡ところ」と刻まれた石碑があります(写真1)。
明智左馬之助こと明智秀満は、織田信長の重臣・明智光秀の娘婿とされる戦国武将です。明智光秀関係の資料をみると、常にその傍らに彼の名が確認されます。例えば、本能寺の変の際に光秀が謀議した限られた家臣の中にもその名前がみられるなど、明智家きっての重臣であり、光秀から厚く信頼を得ていた人物であったことがうかがわれます。
周知の通り、明智光秀は本能寺の変以後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて亡くなります。その際秀満は、信長亡き後の安土城の留守居を任されていましたが、主君敗戦の報を受け、急ぎ明智家の居城・坂本城へ向かいます。しかしその途上、この打出浜において、秀吉方の堀秀政軍と衝突。窮地に立たされた秀満は、馬に乗って琵琶湖を渡り、対岸の坂本城まで帰還したといわれています(写真2)。
◆おすすめpoint
この打出浜という地は、そもそもどのような場所であったのでしょうか。現存する日本最古の和歌集『万葉集』(第13巻)に次のよう歌がおさめられています。
【訓読】逢坂をうち(・・)出でて(・・・)見れば近江の海白木綿花に波立ちわたる
ここには逢坂山を越えて広がる琵琶湖の情景が詠われており、山越えして最初に近江へ抜けたことが「うち出で」と表現されています。こういった認識が当地の名の由来となったのでしょうか。
平安時代以降は、皇族、貴族の石山寺参詣の際の乗船場や仮屋設置の場所としてその名が確認されるとともに、一般にも湖東や湖北へ数多くの小舟が出航する交通の要地であったようです。
なお、現在石碑が建つ周辺は戦後の埋立地で、本来の打出浜と呼ばれた地は江戸時代の地誌『近江輿地志略』によると、もう少し内陸の南東側、旧松本村から旧馬場村付近の浜辺であったようです。
実際に秀満が馬に乗って琵琶湖を渡ったかは同時代史料から見出すことはできませんが、前述のように湖上交通の要地であり、人が往来する拠点であったことが湖水渡り伝承の成立に少なからず影響しているのかもしれません。
◆周辺のおすすめ情報
現在は湖岸沿いにハイキキングコースが整備されており、さらに「なぎさのテラス」というおしゃれなカフェが4軒並んであります(写真3・写真4)。史跡散策を兼ねたハイキングを楽しみながら、ゆったりとした時間を過ごされてみてはいかがでしょうか。
◆アクセス
【公共交通機関】JR琵琶湖線「大津駅」から徒歩20分
京阪電鉄石山坂本線「島ノ関駅」または「石場駅」から徒歩5分
【自家用車】 名神高速道路大津IC下車5分 ※但し、専用駐車場無し
(渡邊 勇祐)