新近江名所図会
新近江名所圖会 第337回 忘れ去られた道-芦浦街道を歩く【大津市編】
その存在を知ったのは、2年前の令和元年(2019)の夏のことでした。小学校6年生だった娘の夏休みの地域学習の課題に、「地元の歴史を調べる」といったものがありました。その取材に付き合って、2人で大津市大萱集落を巡りましたが、引っ越してきて20年にもなるのに知らなかった史跡がたくさんあり、とても勉強になりました。その時、細い路地の一角で1つの小さな石標を見つけたのです(写真1)。石標そのものは新しく、立てられたのは昭和56年(1981)でしたが、表面に「旧芦浦街道」と書いてあります。恥ずかしながら、その存在を知りませんでしたが、職業柄、おそらく草津市芦浦町にある芦浦観音寺へ向かう道であろうと推測できました。ただ、なぜこんな細い道が参詣のための街道とされていたのか、不思議に思いました。
2度目に認識したのは、昨年の令和2年5月のゴールデンウィークの時です。歩いて買い物に出かけた際に、遠回りですが旧東海道を通って帰宅しようと思い、月輪池一里塚跡(江戸から120里)から旧東海道に入り、南下していきました。その通りがかりに掲示されていた「大江の史跡 文化財マップ」に、「芦浦街道」の表記がありました。川の手前で東海道から分岐して北上するルートが記されていました。この分岐点からだと、芦浦観音寺まで10㎞近い道のりになり、おそらく先の石標のところを通っていくのだろうと推測しました。それで、ルートを変更し、このマップを頼りに芦浦街道を通って帰宅することにしました。
分岐点には、昭和55年に立てられた石標がありました(写真2)。幅2~3mほどの細い道を進んでいくと、集落のなかを屈曲しながら続いていきます。必ずしもつながった道ばかりではなく、T字路にぶつかると行く先に迷いますが、古い石標がそれを助けてくれることもありました(写真3)。JR琵琶湖線をくぐったあたりで、新興住宅地や東レ瀬田工場により、突然道は途切れてしまいました。しかし、東レ瀬田工場から北側は北東方向に向かう道が残っていて、大津市大萱3丁目で浜街道(県道26号大津守山近江八幡線)に接続します。ここからは、ネット検索で得た情報を参考にしながら進んでいき、浜街道と時折交差する道を現在の草津市との境あたりまで何とか辿ることができました。しかし、とくに市境のあたりは、大津湖南幹線(近江大橋取付道路)が通っていて改変が著しく、あまり道筋はわかりませんでした。とある交差点の片隅には、不自然な三角形の歩道があり、それが隣接するコンビニエンスストアの駐車場の配置を規制していました。歩道の駐車場側のラインは、北側に延長すると、現在も残る芦浦街道へつながることから、かつてあった芦浦街道の路肩の痕跡と推測されます。
◆おすすめポイント
旧東海道や旧中山道といった主要街道などでは、現在でも社寺や常夜灯などの石造物があったり、名所・旧跡の案内板や立て看板などそれとわかる目印があったりします。いろいろと目に入るものが多く、散策していても楽しく時間を過ごせます。
しかし、この芦浦街道は、そもそも主要街道と性格が違うからなのでしょう。民家の軒先の曲がりくねった細い道が多く、見どころというべきものはあまりありません。これといった見どころがないことが芦浦街道の特徴であり、その利用のされ方を知る上では重要かもしれません。あるいは、歴史的に芦浦観音寺といえば、中・近世における琵琶湖の湖上交通を管掌する船奉行としての役割の方がよく知られています。芦浦街道を考える上では、そう言った要素も加える必要があるのでしょう。
一方、明治26年(1893)に旧陸軍陸地測量部が作成した2万分の1地形図「瀬田」には、芦浦街道が記され、「芦浦道」のキャプションまで付けられています(図1 赤線が道筋、黒丸がキャプション)。右側が実線、左側が破線で、凡例によれば幅2~3mの道になります。このようにわざわざ地形図に記されているということは、狭い道ながらも、当時も地域住民が頻繁に利用する道として、認識されていたことを示していると考えられます。
大津市域の芦浦街道を歩いた翌日、コロナ禍で暇を持て余していた娘と、思い立って芦浦街道を芦浦観音寺まで自転車で行ってみることにしました。
現代の道路地図と明治期の地形図、そしてネットで見つけた情報を頼りに、狭く途切れた道を迷いながらゆっくり走ったため、大津市の自宅から2時間半くらいかかりました。芦浦観音寺は、例年なら年2回の一般公開日でしたが、残念ながら中止となっていて、外から眺めることしかできませんでした。
おしりが擦れて痛くなったりもしましたが、ややこしい年頃の娘とのとてもいい思い出になりました。この草津市域部分については、機会があればまた書きたいと思います。
◆周辺のおすすめ情報
今回辿った道沿いには、少ないながらもいくつかの神社や遺跡などがあります。JR琵琶湖線南側の若松神社は、神社そのものも社伝によれば創建は古く、奈良時代のようです。境内には、若松神社境内古墳があり、移築された石室に出土した陶棺のレプリカが置かれています(写真6)。また、その北側には、瀬田川や瀬田橋を監視する目的で築かれた窪江城跡があります。戦国期には瀬田一帯を治めた山岡氏の居城の1つとなりましたが、本能寺の変後、明智光秀に攻め落とされました。線路敷設により南側は破壊されましたが、主要部分は東レ瀬田工場の敷地内に現在も残っていて、石垣などが保存されているようです。残念ながら、今回は見学できていません。
◆アクセス
【公共交通機関】芦浦街道と東海道の分岐点へは、JR瀬田駅から南西方向へ歩いて約20分、あるいは同駅から近江鉄道バス神領団地線で瀬田南小学校前下車すぐ。JR石山駅から近江鉄道バス神領団地線あるいは浜街道線で瀬田南小学校前下車すぐ。
※付近に駐車場はありません。また、芦浦街道は幅員が狭いところが多く、車で通行し続けることはできません。ぜひ、公共交通機関で訪れてみてください。
(小島孝修)
推定芦浦道