新近江名所図会
新近江名所圖會 第288回 大友皇子を祀る三社の御霊神社(大津市鳥居川町ほか)
壬申の乱の舞台となった「瀬田の唐橋」の近くに、壬申の乱とゆかりのある二社の御霊神社が鎮座します。いずれも乱に敗れた大友皇子を祀った大津市鳥居川町の御霊神社と北大路の御霊神社です。その内の北大路の御霊神社で行われている「勧請祭」の様子については、第181号でご紹介しました。
乱に敗れた大友皇子の足取りについて、『日本書紀』には「天武元年 (672年)7月 、是に大友皇子、走(にげ)て入る所無し。乃ち還りて山前(やまさき)に隠れ、自ら縊(くびくく)る。」とあります。この「山前」が具体的にどこなのかはよくわかりませんが、鳥居川町の御霊神社の由緒によると、大友皇子が命を絶った「隠れ山」が御霊神社の裏山であると伝えられ、白鳳4年(675年)に大友皇子の子の大友与多王が父の霊を祀って創祀したと伝えられています。この伝承によって、後に弘文天皇陵を選定する際の候補地にあげられたことから膳所藩の崇敬を受け、神領田を寄進され、また、明治時代の廃城令により膳所城の本丸黒門がこの地に移築されて現在に至っています。
この神社から北西約500mに鎮座する北大路の御霊神社は、社伝によると乱の109年後の天応元年(781年)の春に大友皇子の遺臣の子孫らによって祖霊として祭祈されたのが神社の創祀とされています。この神社も江戸期を通じて膳所藩より崇敬を受け、神領田を代々寄進されています。
さらに、瀬田川を挟んだ東側に、もう一社、御霊神社が鎮座しています。その場所は、国史跡の近江国庁跡の北東隅にあたります(大津市大江)。由緒よると、「彦座王(ひこいますのみこ:開化天皇の皇子)の第4世にあたる治田連(はるたのむらじ:淡海国造)の子孫が大友皇子の御霊を祀ったのが最初で、御霊ケ原小字荘山(具体的な場所は不明)に鎮座されていた。元和2年(1682年)の秋の暴風雨により、倒壊した後、小字七の社(場所は不明)に移された」とあります。さらに、「明和5年(1768年)には御旅所であった住野神社(現在地)に移された」とあります。
三社ともその成り立ちについては、神社に伝わるこれらの由緒からしか推し量ることができません。いずれにしても、石山や瀬田周辺の現況からは想像しづらい、天智天皇の崩御後の皇位継承をめぐり、近江の地を舞台にして繰り広げられた戦乱の結末を示す貴重な文化財です。
(吉田秀則)