新近江名所図会
新近江名所圖會 第289回 国内最古級となる三間社流造の神社本殿 東近江市金貝遺跡
◆概要
金貝遺跡は東近江市八日市に所在する遺跡です。愛知川中流域に形成された扇状地の左岸に位置しています。この遺跡からは平成20年に行われた発掘調査で、奈良時代後半の神社本殿と考えられる建物が見つかりました。
見つかった神社本殿は桁行6.07m、梁行6.96mの規模があります。神様がおられる建物から正面に向かって屋根が大きく伸びる構造をした流造(ながれつくり)と呼ばれる本殿形式をした建物で、柱間の数から三間社流造と呼ばれるものです(写真1)。発掘調査によって、この三間社流造が確認された事例はほとんどなく、この遺跡以外では石川県の寺家遺跡にその可能性が指摘されている建物が1例知られています。
この建物の最大の特徴は、京都市にある上賀茂神社(賀茂別雷神社)や下鴨神社(賀茂御祖神社)と本殿形式や規模がほとんど同じであるということです。賀茂社は平安京の皇城鎮護の神社として崇敬を受けていた神社です。平安時代初期に作られた『続日本紀』の記録では、奈良時代末にあたる延暦3年(784)に神社本殿が新たに建て替えられており、この時に建てられたのが流造の神社本殿であったとする意見があります。したがって、都に建てられたものと同じ神社本殿が、この地に建てられていた可能性があります。
この遺跡の周辺は扇状地に形成された段丘上にあたります。水はけが良い土地で、川の流れる場所から一段高くなった場所であることから耕作を行うための灌漑が困難な場所でした。そのため、川に近い場所に比べて開発が遅れ、奈良時代になってから集落が造られるようになります。発掘調査では奈良時代から平安時代にかけての灌漑水路が3本見つかっており、愛知川から1㎞以上の距離がある水路が造られていたと想定されます。この場所の開発は、これらの水路によって可能となったと考えられます。
灌漑水路のそばに建つ神社本殿は土地開発や水田経営の安定を祈り、それに関わる人々の精神的な拠り所であったとみられます。県内における当時の開発の状況から、このような大規模な灌漑施設を伴った開発には近江国の国司が関わっていたと考えられます。都と同じ神社本殿は、国司の関与によって建てられたとみられます。
神社本殿の遺構は現在も大切に地下に保存されており、その場所には案内板が建てられています(写真2)。
◆おすすめpoint
愛知川の近くに所在する河桁御河辺神社(かわけたみかべじんじゃ)は、金貝遺跡から北西へ700mの場所に所在しています(写真3)。この神社は平安時代の『延喜式』に記載のある川桁神社の候補に挙げられる神社のひとつです。もともとは御川辺神社と称していましたが、明治16年に現在の社名となっています。現在の本殿は慶長十五年(1610年)に造営されたもので、三間社流造の本殿が建てられています。
境内には、国の重要文化財に指定されている鎌倉時代の石燈籠があります(写真4)。高さが230.6mを測る花崗岩製で、平面六角形をしたものです。火袋には銘文があり、その中には「延暦四年」(1311年)と刻まれています。「全容的につりあいのよい、すっきりとした鎌倉時代の名作」と紹介されている石燈籠を見学してはいかがでしょうか。
(中村智孝)