新近江名所図会
新近江名所圖會 第264回 信長がムリヤリ安土に招致した寺院~浄厳院~
織田信長は一般に、「仏教を弾圧しキリスト教を保護した」イメージを持たれているようです。確かに、延暦寺焼討や一向一揆の虐殺は事実ですが、実はその何十倍もの寺社を保護し、安全や権利を守っていたことは、あまり知られていません。お膝元の安土城下町には、信長が土地を提供したキリスト教のセミナリヨ(正確には3階部分を神学校とした「修道院〈カーザ〉」)がありましたが、多くの寺院や神社も営まれていました。中でも、信長自らが強引に招致したのが、城下町の南西に伽藍を構える浄土宗浄厳院でした。上りのJR線に乗ると、安土駅到着直前に右手に見える大きな屋根がその本堂です。
浄厳院の前身は栗太郡金勝山(栗東市)に14世紀頃に営まれた草堂(後の阿弥陀寺)で、住職である応誉明感の人徳に感じ入った信長が、寺院ごと城下町に呼び寄せたといいます。そのときの信長の朱印状が残っていますが、そこには、安土に来なければ寺領を取り上げると書かれていて、信長がいかに熱心だったかがわかります。
浄厳院を有名にしたのが、天正7年(1579)5月にここで行われた、「安土宗論」です。城下町で法談をしていた浄土宗の霊誉玉念に、法華衆の建部紹智と大脇伝内が問答をしかけてトラブルとなり、信長が調停を試みましたが法華衆側が拒否したため、浄厳院で公開法論が行われたのです。結果は浄土宗の勝利に終わり、敗けた法華宗側は袈裟をはぎ取られて打ち叩かれたうえ、二度と他宗に法難を仕掛けないとの誓約書を書かされました。原因を作った紹智と伝内の二人は、後に斬首となっています。
この事件については、信長がその後法華宗側から多額の礼金を徴取したことなどもあり、京都や堺に信徒を抱え、経済的にも勢力を広げる法華宗を抑圧する目的があったと考えられています。しかしなにより、天下静謐-秩序だった平和な世の実現-を目指していた信長のこと、お膝元の城下町の秩序を乱した一部の法華衆徒の横暴が、許せなかったのではないでしょうか。
浄厳院の寺地には、本堂・釈迦堂・不動堂・鐘楼・楼門・勅使門・書院・庫裏などの諸堂舎や子院が並びます。本堂と楼門は、重要文化財に指定されています。本堂は近江八幡市多賀町にあった興隆寺弥勒堂を移築したもの。楼門は、浄厳院以前にこの地にあった慈恩寺(14世紀に六角氏頼が母の菩提を弔うため建立)の遺構で、天文年間(1532~55)に建立されたということです。
【周辺のおすすめ情報】
浄厳院の裏口(北面)の参道と東西に交差する道が、平安時代末に武将平景清が通ったことに由来すると言われる「景清道」です。道に沿って西に向かい山本川を越えたあたりに「西の木戸」という地名が残っており、ここが城下町の西端と考えられています。天正7年6月4日に、丹波八上城(兵庫県篠山市)で明智光秀に降参し安土に送られた波多野兄弟を、信長が赦さず磔にしたという「慈恩寺町末」も、このあたりだったのでしょう。
また、浄厳院の南西部分に広がる墓地の一角に、和田惟政の墓があります。惟政は室町幕府奉公衆を務める甲賀の土豪で、13代将軍義輝が京都で暗殺され、弟で後に15代将軍となる義昭が危険にさらされた際、奈良からの脱出を助け一時は自らの城(甲賀の和田城)に匿い、信長と義昭の橋渡しをした人物です。なぜ惟政の墓が浄厳院にあるのかは分かりませんが、訪れた際には刻銘の薄れたその墓を、探してみてはいかがでしょう。
【浄厳院への行き方】
JR琵琶湖線安土駅から南西に約700メートル。徒歩10分ほど。
境内や墓地は参拝自由。本堂を拝観するには、事前予約が必要です。電話番号は0748-46-2242(浄厳院)