新近江名所図会
新近江名所圖會 第268回 扇状地の宿命か!?水不足と戦ったひとびとの足跡「一ノ井堰之碑」
滋賀県は、豊かな水源に恵まれ、発展の途を歩んできました。その中心となるのはもちろん琵琶湖ですが、昨今では湖に注ぐ河川とそれを巡る町並みの美しさが評価された自治体もあります。
滋賀県の湖東地域に所在する甲良町は、「心かよい 人がきらめく せせらぎ遊園のまち」として「日本水の郷百選」に選ばれました。町の北部には、鈴鹿山脈を水源とする犬上川が横断しており、町の多くがその扇状地上に立地しています。「水の郷」といわれるとおりに、甲良の町なかにはいたるところに水路が流れており、その美しいせせらぎが創り出す景観は、訪れる人たちに癒しと郷愁の感を与えてくれます。
そんな甲良の町から少し外れてみます。犬上川に沿って、その上流に向かって進んでいくと、今は草木に覆われた川岸にひとつの大きな石碑をみることができます。そこには「一ノ井堰之碑」と書かれています。これこそが、扇状地という大自然に立ち向かった甲良の人たちの戦いの痕跡なのです。
ここ甲良町は、いまでこそさまざまな整備事業によって美しい水の郷として知られることとなりましたが、かつては絶えず水不足に悩まされた土地でした。それは扇状地という地形上に立地することに大きく関わっています。扇状地では、地下水脈が地面よりかなり低いところを流れています。そのため水を得ることが非常に困難な地形でした。そしてその開発には高度な技術が必要だったのです。甲良町域では、小川原遺跡などの縄文時代の遺跡や、弥生時代の遺跡が点在しています。また古墳時代では、発掘調査により多数の埋没古墳が確認され、その数は県内随一ともいわれています。ところが、本格的に生活の営みが広がるのは飛鳥時代以降なのです。つまり、縄文時代から古墳時代にかけては、単発的な居住や墓域としての利用はなされていましたが、安定的な利用に至ったのは、扇状地における生活用水の確保が技術的に可能となった飛鳥時代以降だったのでしょう。平成29年4月に当協会で甲良町内の法養寺遺跡・横関遺跡の発掘調査を実施しました。調査では奈良時代の竪穴建物や掘立柱建物に加え、飛鳥時代に開削され、少なくとも奈良時代まで機能していた溝を発見しました。その溝は、幅5m近くに達する大規模なものです。これこそ古代の人々が生きるために扇状地を開発した技術と労力の結晶だったのでしょう。その結果、甲良の人々はようやく安定した生活を営むことができたと考えられます。そしてその後、戦国武将の尼子氏や藤堂高虎といった歴史上の著名人を数多く輩出することになるのです。
では、古代以降は水不足に全く悩まされずに人々は暮らすことができたのでしょうか?実はその悩みはほんの最近まで続いていたのです。ここ甲良町域の名産はお米です。かつては江戸幕府から絶賛されるほど良質な米が採れることで知られ、現在でもあたり一面に水田地帯が広がっています。そして、かつての犬上川では一ノ井、二ノ井という堰が設けられ、そこから必要な農業用水を得ていました。しかし河川における水の保持性が低かったことなどから、広大な水田に行き渡るための十分な水量がなかったそうです。そしてそこに流れるわずかな水を巡って、犬上川左岸・右岸の人たちの間でたびたび争いが起こっていました。そして昭和7年7月に起こった大干ばつの際には、石合戦や竹槍による争いにまで発展し、警官二百余名が出動する大事件へと発展することになります。これを「犬上川騒動」といいます。この事件を契機に、事態を重くみた滋賀県がこの地域の水利開発に乗り出すことになります。下流には一ノ井・二ノ井の合同井堰が設けられ、上流には日本最古の農業用コンクリートダムである犬上川ダムが建設されました。永い時を経て、ようやく甲良の人々は水の悩みから解放されたのです。扇状地という大自然の力に人の技術が勝った瞬間でした。
この石碑は、かつての一ノ井堰があった近辺に建てられました。今は水に満ち満ちた美しい町並みを演出する甲良の町、そこに至るまでの歴史をけっして忘れないよう願いを込めて。
【おすすめポイント】
甲良町の中心部に近い尼子、下之郷の集落の中には多くの水路が流れています。それらが創り出す美しい景観は、県内でも有数の水の美観スポットです。徒歩でのんびりと散策するのがおすすめです。
【アクセス】
名神高速道路 湖東三山ICから車で約20分