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新近江名所図会

新近江名所圖會 第426回 近江の一向一揆の故地を訪ねて ~守山市金森御坊・三宅城~

守山市

 城郭などの戦国関係のスポットが引く手あまた存在する滋賀県において、やや玄人好みの「近江の戦国ディープスポット」をご紹介しましょう。今回は湖南地域で一向一揆の舞台となった、守山市金森町・三宅町周辺を散策してみたいと思います。

 近江では14世紀頃になると、浄土真宗の教えが徐々に広まっていきます。そして、その門徒たちが寺院を中心に団結し、自治的な寺内町を形成していった地域がいくつか現れてきます。そうした拠点になった地域の一つが、今回紹介する守山市の金森町・三宅町界隈です。

 寛正6年(1465)に延暦寺山徒が京の大谷本願寺を攻撃し(「寛正の破却」)、宗主であった蓮如が守山の地に逃れて金森を拠点に布教活動を行います。その結果、この地の天台寺院の多くが浄土真宗に転宗したとされます(写真1)。

写真1 蓮如上人御旧跡碑

 翌年の文正元年(1466)には、信徒を奪われるかたちとなった延暦寺勢が僧兵を派遣したことに対抗して、当地で一向一揆が形成されます(「金森合戦」)。一向一揆といえば「加賀の一向一揆」などが有名ですが、金森・三宅で起こったこの一揆は、実は史上初めての一向一揆として知られています。

 100年ほど時を隔てて、織田信長が近江をはじめ畿内各地の勢力と戦いを繰り広げた元亀年間(1570~1574)には、大坂本願寺の宗主顕如の檄文に呼応して金森・三宅を中心に一向一揆が再度形成され、さらに六角氏も加勢して織田勢に対抗します。最終的には近江を掌握した信長により一向一揆は解体され、金森・三宅周辺地域も織田政権の支配下に組み込まれていきました。

〔おすすめPoint〕

【金森御坊】

 金森町付近では、現在も残る「善立寺」・「因宗寺」・「御坊(金森懸所)」の3つの寺院を中心とした寺内町が形成されていました。後世の土地改変により当時のままの姿を留める遺構はあまり残されていませんが、天保7年(1836)に描かれた『金森村絵図』によると、3つの寺院を中心に、町の中央を街道が通り、周囲を堀や土塁に囲まれた構造であったと推測されます。

 当地を歩くと、善立寺などの寺院と集落内外を通る水路から寺内町の姿を垣間見ることができます。金森御坊(写真2)の境内には、重要文化財となっている高さ約2mの懸所宝塔が残っています。金森御坊は普段は施錠されていますが、善立寺にお願いすれば見学が可能です(取材時は急過ぎたため見学できませんでしたが・・)。

写真2 金森御坊

 また、金森町には「城ノ下」という地名が残っており、川那辺氏を城主とする「金森城」があったとされます。金森城について文献史料上では建武3年(1336)の湖上輸送権を巡る争いについての記載が初見ですが、平地居館となる金森城や城主の川那辺氏は以後の寺内町の形成にも大きく関わっていたとみられます。

【三宅城(蓮正寺)】

 金森町の南西に位置する三宅町には「蓮正寺」という寺院があります(写真3)。この蓮正寺の境内がかつては三宅城であったと考えられ、金森城の出城であったとされます。蓮正寺には境内を囲う高さ2m前後の土塁やその外側の水路に城郭であった当時の名残をとどめています(写真4)。

写真3 蓮正寺(三宅城)遠景
写真4 蓮正寺に残る土塁

 蓮正寺境内の南西辺には、旧野洲郡と旧栗太郡の境界となる境川が流れており、川が堀の役割を果たしていたと考えられます。また、城郭構造としての視点から見ると、境内の2か所にある門が城の出入口(虎口)であったと推測され、特に正門となる現在の山門は、境内を囲う土塁が「ト」の字状となって内側に奥まっていることから、喰い違い虎口あるいは外枡形虎口であったとみる意見もあります(写真5)。

写真5 蓮正寺山門

 また、集落内を散策すると、かつて集落域を環濠状に囲んでいた外周水路の名残と推測される水路が残っています。これらを加味すると、蓮正寺境内が三宅城の主郭、外周水路の内部を環濠状に囲いこんだ集落空間であったことが推測されます。

 今回は少々ニッチなスポットをご紹介しましたが、日本の歴史上初めての一向一揆が起こった地、そして見落とされがちな武家勢力以外の勢力が信長に対して蜂起した地に思いを馳せながら、のんびりと散策されるのはいかがでしょうか。

(小林裕季)

アクセス:【公共交通】JR琵琶湖線守山駅から近江鉄道バス杉江循環線「金ヶ森」下車

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