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中門跡

新近江名所図会

新近江名所圖会 第115回 謎多き寺 甲賀寺か -史跡紫香楽宮跡内裏野丘陵地区-

甲賀市
(甲賀市信楽町黄瀬・牧)

信楽高原鐵道の紫香楽宮跡駅から北西へ約1㎞、国道307号線「牧東」交差点から北へ約500m進むと、松林に覆われた丘陵地に残る史跡紫香楽宮跡内裏野地区にたどり着きます。ここは、奈良時代中頃に聖武天皇が紫香楽宮で大仏造営を行った甲賀寺の有力な候補地となっています。
史跡紫香楽宮跡内裏野地区のある丘陵は、古くから「内裏野」・「寺野」と呼ばれていました。江戸時代にはすでに礎石が露出していたことなどから、聖武天皇の紫香楽宮と推定され、大正15年(1926)に史跡(史蹟)に指定されました。しかし、昭和5年(1930)に肥後和男氏らが発掘調査を行ったところ、中門や経楼・鐘楼のほか、伽藍東側の塔・塔院回廊など、東大寺に似た伽藍配置を持つ遺構群が見つかりました。この発見により、これらの礎石群は紫香楽宮ではなく、寺院遺構であると考えられるようになりました。

おすすめpoint

中門跡
中門跡

緑の松林に囲まれた緩い坂の参道を登ると、東西約105m・南北約120mにわたる平坦地が広がっています。この平坦地には建造当時の335個の礎石が残り、はるか天平時代に雅やかな寺院の中心伽藍が存在していたことが偲ばれます。
丘陵の最南端には中門跡があり、さらに進むと一段高い金堂跡があります。金堂跡と中門跡の比高差は約4mあり、往時は中門をくぐると、その前に金堂がそびえ立つ風景だったと想像されます。金堂跡の基壇部分は東西約28m・南北約18mで、礎石の並び方から基壇上には桁行7間・梁間4間の建物が建っていたと考えられます。この金堂の規模では、到底大仏を納めることは不可能です。金堂跡の北側にはさらに平坦地が広がっているので、こちらで大仏が造営されたのではないか、とする意見もあります。なお、現在は金堂跡の中央に聖武天皇を祭神とする小祠堂があります。

金堂跡
金堂跡

金堂跡周辺では近年、小規模ながら発掘調査が実施されています。この発掘調査によって、金堂が最初に建立されてそれ以外の施設は聖武天皇平城還都後の8世紀中頃に建立された可能性が高いこと、寺院は火災により8世紀後半には廃絶した可能性が高いこと、金堂周辺の回廊が礎石と掘立柱で構成されるという特異な構造を採っていること、などがわかりました。そのような調査成果から、内裏野丘陵地区の礎石群は、聖武天皇平城還都後の天平17年(745)から延暦4年(785)までの40年間続いた、近江国分寺のものであるとする考え方が有力になりつつあります。

塔跡
塔跡

紫香楽宮での甲賀寺や大仏造営の実態については、依然、考古学的には直接的証拠が少ないという状態が続いています。しかし、紫香楽宮に関連する遺跡である宮町遺跡や鍛冶屋敷遺跡では多くの調査成果があがっています。これらの成果を総合的に見ていくことにより、現在では甲賀寺や大仏造営の実態について想像することができる段階に入ってきています。ぜひ、内裏野丘陵地区の礎石の上に立ち、天平のミステリー・ロマン、そして聖武天皇の大仏造営に傾けた思いを想像してみていただければと思います。

周辺のおすすめ情報

周辺には、宮町遺跡や鍛冶屋敷遺跡のほか新宮神社遺跡・北黄瀬遺跡など、紫香楽宮関連遺跡が展開していて、これらの遺跡は全て国の史跡(史跡紫香楽宮跡)に指定されています。また、ここから北へ約1.5㎞の宮町地区にある紫香楽宮跡関連遺跡群調査事務所(宮町事務所、展示室併設)では、紫香楽宮跡から出土した遺物などを展示しています。

紫香楽宮跡関連遺跡群調査事務所

開館時間: 9:00~16:30
休館日: 土日祝日と年末年始
入館料: 無料
問合せ:0748-83-1919

アクセス

【公共交通機関】信楽高原鐵道紫香楽宮跡駅下車徒歩約15分
【自家用車】新名神高速道路「信楽I.C.」より北西へ2分、駐車スペースあり


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参考文献

・甲賀市教育委員会2007『よみがえらそう 紫香楽宮-甲賀寺と紫香楽宮』
・甲賀市教育委員会2011『史跡紫香楽宮跡保存管理計画書』
・滋賀県教育委員会2007『近江歴史探訪マップ10 聖武天皇の夢・紫香楽』
・滋賀県教育委員会2009『史跡紫香楽宮跡(内裏野丘陵地区)確認調査事業報告書』

(大道和人)

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