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県道134号の案内標識

新近江名所図会

新近江名所圖会 第121回 神君伊賀越えのルート -御斎峠・桜峠- ―自転車で峠越えvol.2―

甲賀市
県道134号の案内標識
県道134号の案内標識

第117回の国見峠は、自転車での峠越えについてご紹介しました。今回は、ぐっと南に下がって甲賀市信楽町の御斎(おとぎ)峠と桜峠をご紹介します。御斎峠・桜峠はともに伊賀国へ通じる峠です。
『近江輿地志略』(享保19年(1833)完成)に記載された伊賀路は、「於土岐越(おとぎごえ)」・「丸柱越(まるばしらごえ)」・「内保越(うちぼごえ)」・「油日越(あぶらひごえ)」の4道です。このうち、御斎峠は「於土岐越」であることはすぐにわかりますが、桜峠については「丸柱越」の解説文を読むとこれに該当することが理解できます。

御斎峠の案内板
御斎峠の案内板

※〔於土岐越〕是甲賀郡に属す。信樂多羅尾村より伊賀國西山村に出る路也。勢多より國界に至つて十里、國界より伊賀國上野に至つて二里也。
〔丸柱越〕信樂小川村より伊賀國丸柱村に出る路也。或は之を信楽越ともいふ。勢多より小川村に至つて七里半、小川村より國界に至つて四里也。

おすすめスポット -「神君伊賀越え」のルート、御斎峠・桜峠-

代官所仕置場案内板
代官所仕置場案内板下の広場が仕置場仕置場への道

天正10年(1582)6月に起きた本能寺の変の際、徳川家康は滞在先の堺から宇治田原→甲賀→伊賀を経て岡崎城へ帰還します。江戸幕府が編纂した徳川家康の公伝『東照宮御實紀』には、「これを伊賀越とて御生涯御艱難の第一とす。」と記されていて、いわゆる「神君伊賀越え」として有名です。宇治田原からは裏白峠を経て甲賀へ入り、多羅尾光俊の居城である小川城で休息を取って御斉峠(『東照宮御實紀』では「音聞峠」)を越えて伊賀へ抜けたとされています(ちなみに、宇治田原城(山口城)城主の山口家には多羅尾光俊の子が養子に入り家督を継いでいます)。

下の広場が仕置場
下の広場が仕置場

御斉峠の付近には「徳川家康伊賀越の道」の標柱が建てられ、峠の案内板にも多羅尾光俊父子の案内で伊賀に抜けたと記されているように、伊賀越えのルートとして広く知られています。しかし、小川城から伊賀へのルートとしては桜峠(丸柱越・信楽越)のほうが近いとして、こちらを通ったとする説もあります。ただ、桜峠には伊賀越えに関する案内板はありませんでした。

仕置場への道
仕置場への道

なお、「徳川家康伊賀越の道」の標柱脇には、代官所仕置場跡の案内板も建てられています。代官所とは多羅尾代官所のことで、寛永15年(1638)に光俊の孫にあたる多羅尾家第十六代光好が近畿地方の天領を治める代官に任命されて、この地に代官所が設けられます。以来、9代・226年にわたって多羅尾氏が代官を世襲しました。

おすすめpoint―御斉峠の眺望

三重県側からみた御斎峠
三重県側からみた御斎峠

御斉峠を三重県側にわずかに下ると視界がひらけ、伊賀市域を一望できます。かつて家康も望んだ景色です。「御生涯御艱難」の伊賀越えの最中ですから、景色を見る余裕はなかったでしょうか。あるいは、余裕たっぷりで景色を楽しんでいたのかも・・・。

御斎峠から三重県側をみる1
御斎峠から三重県側をみる1
御斎峠から三重県側をみる2
御斎峠から三重県側をみる2

周辺のおすすめ情報

小川城(中ノ城・西ノ城)(甲賀市信楽町小川)

多羅尾氏の旧城で、「神君伊賀越え」の際に家康が滞在したことで知られています。県道138号に面した低丘陵に、石垣で囲まれた郭や礎石建物の跡が残っています。

多羅尾代官陣屋(甲賀市信楽町多羅尾)

江戸時代を通して世襲代官であった多羅尾氏の代官所跡です。切石を用いて精緻に積み上げられた石垣が残されています。

滋賀県立陶芸の森(甲賀市信楽町勅旨2188-7)

40haの広大な敷地には、信楽産業展示館・陶芸館・創作研修館といった情報発信・展示・研修施設のほか、太陽の広場・星の広場などのテーマでいろんなモニュメントが配置され、屋外展示場としての機能も併せ持つ都市公園です。月曜休園、陶芸館(美術館)は展示替期間と冬期は休館。

御斉峠へのアクセス

【公共交通機関】
信楽高原鉄道信楽駅から高原バス多羅尾ルート信楽温泉下車(30分・250円)約1.5km
(信楽温泉多羅尾乃湯は日帰り入浴可能です。大人1,000円/休日1,500円)
【自家用車】
新名神信楽ICから約30分・京滋バイパス笠取ICから約40分
【自 転 車】
滋賀県立陶芸の森から周回で32km/3時間(休憩・昼食含む)/獲得標高338m

(大崎康文)

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