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新近江名所図会

新近江名所圖会 第141回 石の国・近江 -近江八幡市安養寺町の石造五重塔-

近江八幡市
(近江八幡市安養寺町)

十数年前に当協会に就職して最初に発掘調査を担当した現場が、近江八幡市安養寺町にある辻野遺跡でした。就職前は学生でしたから、それまでは発掘現場といっても途中から参加したり途中で抜けたりすることも多く、責任も責任感もそれほどあるわけではありませんでした。ですが、社会人になってその現場の担当者となったからにはそういうわけはいきません。最初から最後まで、仕事として責任を持つ必要がありますから、この現場では初めてのことをいろいろと経験させてもらいました。ですから、私にとってはとても思い出深い遺跡の1つですが、辻野遺跡そのものは決してよく知られた遺跡ではありませんでした。しかし、その調査で出土した大量の近世末~近代初頭の陶磁器について、近年その一括性が評価されるようになり、少しずつですが知られる存在になってきたようです。発掘調査を担当し、報告書を書いた身にとっては、嬉しい限りです。

安養寺町の石造五重塔
安養寺町の石造五重塔

今回紹介しますのは、その発掘現場の近くにたたずむ、石造五重塔です。南下していく国道477号線が、高台にある上野町の集落を抜けてすぐに左(南東方向)へ屈曲しますが、その屈曲部分、高台の麓に位置しています。
高さ4.18mを測る花崗岩製の塔で、国の重要文化財に指定されています。台石には格座間の中に三茎蓮を浮き彫りして、軸石各面には肉厚の仏座像を配しています。相輪の請花や伏鉢と九輪の最下段部が欠損していているのは、説明板にもあるように、実に惜しく思われます。軸石南面に寛元4年(1246)と刻銘されていますので、鎌倉時代中頃に造立されたものとわかります。無名のものではありますが、石塔が多数造立された鎌倉時代の近江を代表するような、堂々とした立派な五重塔です。
この石造五重塔は、ここから南東約700mにかつてあったとされる天台宗寺院「安養寺」の遺品ともされています。安養寺は元亀2年(1571)に織田信長の兵火で焼かれたとされ、現在上野町にある荘厳寺(浄土宗)が所蔵する3体の仏像(国重要文化財)も、同様にもともと安養寺にあったものとされています。

おすすめPoint

五重塔の周りの石仏
五重塔の周りの石仏

さて、この塔の周りには、宝篋印塔1基をはじめとして、多数の石仏や五輪塔が並べられています。おそらく、田畑を耕作中に見つかったものが、ここに集められたものと思われます。さらに、荘厳寺の境内には、その数をはるかに上回る石仏が並べられています。それだけではありません。安養寺町の水田の間を歩きますと、水路わきのそこかしこに石仏や五輪塔を見つけることができます。五重塔や荘厳寺に運ばれなかったものが、そのままそこに置かれたもののようです。実際、辻野遺跡の発掘調査でも、近世の遺構から、石仏や一石五輪塔が見つかっています。

荘厳寺の石仏群
荘厳寺の石仏群
水路わきの石仏
水路わきの石仏

ふるさとの信州では、多くの馬頭観音や庚申塔を見かけましたし、学生時代を過ごした京都では、街の辻々で祠に祭られた「お地蔵さん」をよく見かけました。ですが、このようにたくさんの石仏や五輪塔は見たことがなかった私は、その状況に驚き、ここだけの特殊な事情があるのかと最初は思いました。しかし、その後、滋賀県内各地で発掘調査を行うと、いたるところで同様に大量の石仏が集められている光景に出くわしました。どうやら、この状況は滋賀県ではごく一般的なことなのだと思い至り、石の国・近江を実感している次第です。

周辺のおススメ情報

先ほどの安養寺ですが、少し近江の古代寺院に詳しい方なら「安養寺廃寺」としての方が御存知かもしれません。その跡地は、現在でも周囲の水田よりも少し高い畑地として利用されていて、周辺には古代の瓦片が散布しています。辻野遺跡は、その安養寺廃寺に隣接する遺跡なのですが、私が担当した発掘調査でも、寺に関連すると考えられる遺構や瓦・土器類などの遺物がたくさん見つかっています。
また、さらに南下した国道8号線沿いには、道の駅竜王かがみの里があります。ここは江戸時代に中山道の鏡宿が置かれていたところで、源義経元服の地としてもよく知られています。あわせて訪れてみてはいかがでしょうか。

アクセス

【公共交通】JR琵琶湖線篠原駅から南へ徒歩10分
【自家用車】名神高速道路竜王ICから北へ15分

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(小島孝修)

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