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新近江名所図会

新近江名所圖会 第80回 鍛冶屋敷遺跡-紫香楽大仏に関する重大な発見-

甲賀市
甲賀市信楽町黄瀬
鍛冶屋敷遺跡の調査
鍛冶屋敷遺跡の調査

聖武天皇は、天平14年(742)から16年(744)にかけて5回も紫香楽を訪れています。紫香楽に心惹かれた聖武天皇は紫香楽での大仏造立を宣言し、ここに仏教の聖地を築くことを目指したのです。そして紫香楽宮は、離宮から正式な宮都への造作が本格的に進められたようです。
しかし、紫香楽での大仏造営開始から1年足らずで天皇は平城京へ戻り、紫香楽での大仏造立事業は終わりを迎えます。そして、大仏造立は奈良の東大寺へと引き継がれ、天平勝宝4年(752)に開眼会が行われました。
紫香楽での大仏造立事業は短い期間でしたが、「奈良の大仏」の源流であり、日本歴史上重要な意味をもっていることは間違いありません。

おすすめPoint

墨書土器「二竈領」
墨書土器「二竈領」

天平勝宝4年(752)に東大寺の大仏開眼会が催されてから1250年目の節目の年である平成10年(2002)に、紫香楽での大仏造営事業を考える上で重要な発掘調査が行われました。滋賀県教育委員会・公益財団法人滋賀県文化財保護協会よる鍛冶屋敷遺跡の発掘調査です。その場所は、甲賀寺推定地である史跡紫香楽宮跡内裏野地区から約400m北方に位置します。
発掘調査の結果、大仏造営開始の儀式のために建てられたと思われる掘立柱建物、大仏を鋳造するために全国から集められてきた大量の銅の不純物を取り除いたり(精錬)、銅製品を鋳造するために必要な溶解炉や踏みフイゴ(空気を送る装置)を規則的に18基以上配置した鋳造工房群、直径1.8mもある巨大な台座や梵鐘を鋳込んだと考えられる巨大な土坑が発見されました。
また、注目される遺物として「二竈領」と書かれた墨書土器が出土しています。東大寺境内の発掘調査で出土した木簡に「右二竈」「右四竈」「五竈」「七竈」といった文字があり、この墨書土器に書かれた「竈」は溶解炉を示していると考えられます。また、東大寺の木簡からは、それらが整然とした配置をとっていたことが窺え、「領」は事業所や役所の単位部門を管理する責任者を意味します。つまり「二竈領」は「二番目の溶解炉を管理する責任者」ということになります。
つまり鍛冶屋敷遺跡の発見で、紫香楽の大仏造営が鋳造する前ぐらいまでできていたことと、甲賀寺においても東大寺と同様の工房が営まれていたことがわかってきたのです。
なお、鍛冶屋敷遺跡は2010年5月に国の史跡に指定されました。

周辺のおすすめ情報

現在の鍛冶屋敷遺跡
現在の鍛冶屋敷遺跡

周辺には、紫香楽宮に関連する遺跡が展開しています。
甲賀寺は延暦4年(785)まで近江国分寺であった可能性のある史跡紫香楽宮跡内裏野地区、『続日本紀』の天平17年(745)に「百官の主典以下を朝堂で宴す」と記載された朝堂が発掘され、大量の木簡が出土している宮町遺跡、宮町遺跡と史跡紫香楽宮跡内裏野地区を結ぶ道路とそれに伴う橋脚や掘立柱建物が発見されている新宮神社遺跡、大型の井戸が発見された北黄瀬遺跡があります。それらの遺跡はすべて国の史跡(史跡紫香楽宮跡)に指定されています。

アクセス

【公共交通機関】信楽高原鉄道紫香楽宮駅下車徒歩約15分
【自家用車】新名神高速道路「信楽I.C.」より北西へ1分、駐車場あり(隼人川みずべ公園)


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(大道和人)

参考文献
・『鍛冶屋敷遺跡』滋賀県教育委員会 2006
・『よみがえらそう 紫香楽宮-甲賀寺と紫香楽宮』甲賀市教育委員会 2007
・『近江歴史探訪マップ10 聖武天皇の夢・紫香楽』滋賀県教育委員会 2007

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