記事を探す

新近江名所図会

新近江名所圖会 第198回 江戸時代の大地震―寛文地震とその痕跡-大津市葛川町居町・葛川梅ノ木町

大津市

最近、阪神淡路大震災や東日本大震災等の大規模地震の頻発から日本列島が地震の活動期に入ったといわれるようになりました。滋賀県は大規模な災害が少ない地域であると思われがちです。しかし、歴史はこの地がたびたび巨大震度に襲われたことを教えてくれます。また、母なる湖-琵琶湖それじたいが滋賀県が大地震の常襲地域である証といえるのです。琵琶湖が百万年間も現在の位置に存在し続けるメカニズムは、河川から流入する土砂で埋まり切る前に、数百年周期で起こる大地震によって湖底が沈降するためとする説が有力です。そうした地震の痕跡は滋賀県の各地でみることができます。今回は、江戸時代前期に近江国を襲った寛文地震と今に残るその痕跡を紹介します。
今から約350年前、寛文2年5月1日(1662年6月16日)巳刻・午刻(午前9時~午後1時頃)、琵琶湖西岸の花折断層北部と若狭湾沿岸の日向断層を震源とする2つの連動する地震が発生しました。マグニチュード7.5前後と推定されるこの地震では、震源の近江国・若狭国を中心に京都や大坂まで広域に被災しました。
この地震による被害全体は、死者約700人~900人、倒壊家屋4,000~4,800棟に及んだとされ、特に震源地であった近江国の被害は甚大でした。『談海集』には、琵琶湖北西岸の大溝藩領内で1,000余軒、大津代官所領内でも1,570軒の家がつぶれたと伝えています。
とくに琵琶湖岸の軟弱地盤に立地した膳所城では多くの石垣が崩れ、櫓や門などが破損・崩落し、再建にあたっては本丸と二の丸の間の堀を埋めて新たな本丸とするなど、縄張りそのものを変更しなければならないほどの大きな被害を受けました。また、現在の大津市浜大津一帯にあった幕府の大津蔵屋敷ではすべての蔵が破損したほか、彦根城でも500~600間の石垣が崩れるなどの被害が知られています。
しかし、こうした琵琶湖周辺の被害は、震源付近の安曇川上流部の被災状況に比べればずっと軽微なものといえるかもしれません。高島市朽木にあった旗本朽木氏の陣屋が倒壊し、元領主の朽木宣綱を圧死させた激震は大規模な山崩れ「町居崩れ」を引き起こし、2つの村を消し去っていたからです。

写真1 明王院の石段(正面石段の下から3段目まで水没したと伝える)
写真1 明王院の石段(正面石段の下から3段目まで水没したと伝える)
写真2 「町居崩れ」の跡(正面の谷地形が崩壊場所)
写真2 「町居崩れ」の跡(正面の谷地形が崩壊場所)
写真3 「天然ダム」の痕跡(正面の丘が崩壊した土砂によって形成された天然ダムの一部)
写真3 「天然ダム」の痕跡(正面の丘が崩壊した土砂によって形成された天然ダムの一部)
写真4 町居村跡から掘り出された宝篋印塔(観音寺 )
写真4 町居村跡から掘り出された宝篋印塔(観音寺 )

かつて、大津市葛川明王院の北約1.5kmの安曇川沿いには榎村と町居村のという2つの村がありました。これらの村は地震にともなう奈良岳の崩壊によって、一瞬にして土砂に埋まったのです。これにより両村の560名もの村人が生き埋めになって死亡しました。町居村では300人の村人のうち、生き残った者がたったの37名であったと伝わっています。
村を襲った大量の土砂は安曇川の流れを堰き止めて天然ダムを造り、新たな災害を発生させました。崩れた土砂は安曇川の流れを完全に堰き止め、湛水面積48万㎡にも及ぶ、巨大な天然ダムを出現させたのです。これにより隣村の坊村は集落の大部分が水没しました。『明王院文書』によると、葛川明王院の境内まで水位が達し、坊村の屋敷などが残らず流失したと記されています。地元の言い伝えによると、明王院の本堂(重要文化財)の石段が下から三段目まで水没したとされます(写真1)。
さらに、恐れていたことが起こってしまします。14日後の6月30日午前9時頃、最大湛水量590万㎥に達した天然ダムが崩壊したのです。その結果、朽木谷などの安曇川下流域が洪水に襲われました。高島市朽木岩瀬にある志子淵(しこぶち)神社は、この時の洪水によって社殿を流されたため、現在の場所に移ったと伝わっています。
おすすめPoint
寛文地震の被害状況を今に伝える「町居崩れ」跡は大津市葛川梅ノ木町にあります。江若交通町居バス停から国道365号線を北に800mほど進むと道の東側に山頂付近から山の斜面をえぐるような大きな谷地形があります。これが「イオウハゲ」と呼ばれる「町居崩れ跡」です。崩壊長約700m・最大幅650m・比高360m・推定崩落土砂量2,400万㎥に及ぶ大規模な山崩れの痕跡が現在も確認できます(写真2)。また、この対岸には、高さ100mほどの低い丘陵が川へ向かって伸びていますが、この小山は崩落した土砂が谷を堰き止めて造った天然ダムの一部です(写真3)。ここから川の上流に目を転じて、はるか遠くに見える家並みが当時水没した葛川坊村ですが、天然ダムは坊村を越えて、さらに上流の中村付近まで達しました。現地で災害の痕跡を見ていただければ、当時起こった寛文地震の被害の大きさを理解できると思います。
被災した町居村は災害の後、生き残った37名の村人により、現在の地へ移転して再建されました。旧村は集落のはずれにある観音寺の北側であったと伝わっています。なお、観音寺には、旧村跡から掘り出された宝篋印塔が移築されています(写真4)。
寛文地震の爪痕や観音寺の宝篋印塔は、今後滋賀県を襲うかもしれない大地震に対する警告を今に伝えています。
周辺のおすすめ情報
大津市葛川森林キャンプ村では、テント・バンガロー・シャワー室・テニスコートなど施設があり、安曇川の清流での川遊びや比良山への登山などが楽しめます。開村時期 4月中旬〜10月中旬。詳しくは葛川森林組合まで。電話:077-599-2156 077-599-2222(シーズン中、キャンプ管理棟)
アクセス
【公共交通機関】
・JR湖西線 「堅田駅」下車後、江若交通バス堅田葛川線・細川行き利用、「町居」下車徒歩5分(所要45分、1日3往復)
・京阪鴨東線・叡山電鉄叡山本線 出町柳駅などから京都バス比良線、朽木学校前行き利用(出町柳駅から所要56分、1日2往復)
【自家用車】
・京都市内より国道367号線を北上、大原、途中を経て、花折峠を越え葛川梅ノ木町へ
・大津より国道161号線を北上、琵琶湖大橋交差点で左折、途中で国道367号線に合流、あとは上記と同じ。

(北原治)

Page Top