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新近江名所図会

新近江名所圖会 第310回 蹴鞠の社ー大津市平野神社

大津市
写真1:平野神社本殿
写真1:平野神社本殿

・社の沿革
平野神社は大津市域を縦断する京阪電車石坂線石場駅から徒歩5分ほどのところにある神社です(写真1)。御由緒略記によれば、御祭神は平野大明神―第十六代仁徳天皇(大鷦鷯天皇:おほさざきのすめらみこと)と、精大明神(猿田彦命:さるたひこのみこと)とされています。天智天皇が近江大津宮に遷都されたさいに、都の守護神としてまつられ、天智称制七年戊辰(668年)に鎮座したと伝えられています。
一方、精大明神-猿田彦命は、第三十五代皇極天皇(642年)の御代京都西洞院滋野井に勧請された精大明神を御神託によって大津松本本宮狐谷(本宮2丁目)に奉遷され、蹴鞠の守護神として御鎮座されたといいます。その後、応仁の乱(1467年)のさいに、社殿等が焼失してしまいましたが、天正元年(1573年)に平野大明神をまつる現在の場所に遷座し、現在に至っています。

・蹴鞠の神様
蹴鞠の守護神として精大明神(猿田彦命)をおまつりする平野神社は、蹴鞠の社としてよく知られています。現在でも、例年の8月申の日の申の刻に「けまり祭」が開催されています。古式ゆかしい装束に身を包み、蹴鞠を披露する姿は平安絵巻を彷彿とさせるものです。蹴鞠は、現在京都のいくつかの神社では行われているようですが、ここ滋賀県ではこの平野神社が唯一です。蹴鞠の社だけあって、平野神社の境内には、あちこちに蹴鞠のモチーフが散りばめてあります。社殿の幕にも(写真2)、御神灯の提灯にも(写真3)、拝殿の床板にも(写真4)よく見ると、蹴鞠が表現されています。
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さて、この平野神社、何を隠そう私の地元の神社でして、子供のころからお参りしていた一番身近なお社です。子供のころはまったく意識していませんでしたが、今あらためて見ると、境内には興味深い石碑や石造品があることに気づきました。

◆おすすめPoint
まずは参道にある社号標です(写真5)。社号標とは、神社の格付けや社名を記した石碑のこと。旧東海道から続く参道の入口付近にあります。表に「郷社平野神社」と大書されたもので、裏面の銘文から明治16年(1883年)に大津の甚七町の山本巳之助さんという方によって寄進されたことが分かります。この社号標の字体ですが、社号標の多くが楷書体であるのにたいして、実に闊達なというか、やや癖のあるような印象を受ける字体なのです。気になったので、誰が揮毫されたのか調べてみました。すると、『長等の桜』(西川大治郎著、1927年)という書物に「孫過庭の書風を善くし藤樹書院、天孫神社、平野神社其他の標石に残す。通称は塩屋七兵衛といふ」という記述を見つけました。この塩屋七兵衛という人は、邨田柳崖(むらた りゅうがい)とも称し、大津橋本町の塩商でした。ちなみに、孫過庭(そん かてい)(648-703)は初唐の能書家で、草書を得意とし、代表作に『書譜』・『草書千字文』があるそうです。書物に示された藤樹書院の標石や天孫神社の石碑も見に行きましたが、確かにそっくりな字体でした。
さて、この社号標の横にもう一つ小さな石碑があります(写真6)。これは表に「蹴鞠之神社」と記された方柱形の石碑で、裏面の銘文から幕末の文久元年(1861年)12月に中井氏によって寄進されたことが分かります。
さらに、これら石碑の奥には2基の石灯籠があり、右は「平野大明神」、左は「精大明神」(写真7)と記されており、裏面の銘文から宝暦甲戌年(1754年)3月に建立されたことが分かります。

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・石碑が語る社の歴史
この三つの石造物は平野神社の歴史、つまり江戸時代(18世紀頃)には「平野大明神」・「精大明神」と呼ばれ、幕末には「蹴鞠之神社」呼ばれるようになっていた「平野神社」が、明治政府によって神仏分離が図られるとともに国家神道化が推し進められ、全国の神社の社格と社名が確定されていくなかで、あらたな名称である「郷社平野神社」を広く示すために社号標が建てられた、という歴史を語っていることにあらためて気づきました。

◆アクセス
【公共交通機関】
・京阪石山坂本線 石場駅 から徒歩3分(211m)
・京阪石山坂本線 島ノ関駅 から徒歩6分(519m)
・JR琵琶湖線・京阪石山坂本線:膳所駅 から徒歩10分(778m)
【自家用車】
参拝で来られる場合に限り、1~2台なら境内に駐車可

(辻川哲朗)

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