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新近江名所図会

新近江名所圖会 第341回 長浜平野を拓いた人物が眠る墓-長浜茶臼山古墳

長浜市
写真1 臥龍山
写真1 臥龍山

長浜市と米原市旧山東町との境に連なる横山丘陵。そのもっとも北の部分は、龍が伏(臥)せたような姿に似ていることから「臥龍山」と、先端部は龍の鼻先を模して「龍ヶ鼻」と地元では呼ばれています。この場所は、すぐ近くを姉川が流れていて、戦国ファンならば知らぬ者はいない「姉川の合戦」も、ここで行われました。横山丘陵については、このコラムでもご紹介していますが(新近江名所圖会第99回)、今回は丘陵最北端に築かれた古墳について御紹介しましょう。

長浜市のうち旧長浜市にあたる部分は、姉川の堆積作用によってできた平野で大部分を占めています。伊吹山地に源を発する姉川は、横山丘陵先端の龍ヶ鼻からこの平野に流れ込んでいますが、龍ヶ鼻付近(標高130m前後)から国道8号バイパス付近(標高90m前後)にかけてが、この姉川の堆積作用によって形成された扇状地と考えられています。

写真2 茶臼山古墳
写真2 茶臼山古墳

この扇状地の開発の様子を示す明確な資料は見つかっていませんが、発掘調査によって集落の消長は把握できるようになってきました。具体的には、おおよその傾向として弥生時代の中頃までは湖岸部から現在の北陸自動車道にかけての範囲でコメ作りを中心とする生業を行っていたと考えられますが、弥生時代後期以降になると徐々に平野の東側へと生業の範囲は拡がっていきます。そして、古墳時代初頭になるとその範囲は横山丘陵のふもとにまで至り、古墳時代中期以降、安定的に集落(遺跡)の分布が確認されるようになります。特に、古墳時代中期における横山丘陵周辺部の遺跡では、いくつかの遺跡で朝鮮半島からの渡来人(2世・3世も含む)が住んでいたことを示す渡来系遺物などが出土しています。

◆おすすめPoint
横山丘陵の北端部に築かれた古墳は、茶臼山古墳と呼ばれています。「茶臼山」という名称は、将軍塚・車塚などとともに古墳の名称では多く使われていていることから、近年では頭に地名を冠して呼ばれることが多くなりました。この古墳も滋賀県指定史跡など正式な名称としては「茶臼山古墳」として呼ぶべきですが、ここでは地名を冠して「長浜茶臼山古墳」と呼びます。

写真3 茶臼山古墳
写真3 茶臼山古墳

長浜茶臼山古墳は、龍ヶ鼻に築かれた全長92mの前方後円墳で、後円部を姉川(北側)へ向け、古墳全体が地上からよく見えるように造られています。墳丘は3段築成で、一部葺石も確認されています。現在は前方部と後円部の高さがほぼ等しいのですが、これは昭和初期の軍事演習の際に後円部が削られたことに起因するとされています。しかし、どの程度削られたかはわかっていません。
付近には街道である北国脇往還も通っており、実際に古墳上から周囲を見渡すと、長浜平野が一望できるとともに、ここが北陸(日本海地域)と東海地域を結ぶ交通の要衝地であり、そこを狙って古墳が造られていたことがよくわかります。
最後に長浜茶臼山古墳が築かれた年代について考えてみましょう。後円部が陸軍の演習で削られたことをもって4世紀代に築かれたと考える意見もありますが、墳形や周辺の集落の展開状況を見る限り、古墳時代中期(5世紀前半~半ば頃)に築かれた古墳と考えたほうが良いのではないかと考えます。また、後円部が尾根の先端側に設けられていることからも、本来の前方後円墳が有していた前方部の祭儀的価値が喪失していたことが窺われ、この古墳の年代観を下げて考えることに首肯的な判断を下す材料になるものと思われます。
仮にこの推測が正しいとした場合、古墳に葬られた人物は、長浜平野、特に扇状地の開発を推し進めた人物だったといえないでしょうか。彼はその目的を果たすためにはヤマト王権との関係も深め、当時の最先端技術を有していた渡来系氏族をこの地に招くことにも成功し、彼らの持つ技術力を用いて開墾などの扇状地開発を進めていったものと考えられます。

写真4 垣籠古墳
写真4 垣籠古墳

◆周辺のおすすめ情報
横山丘陵上をはじめ、長浜茶臼山古墳の周辺には多くの古墳があります。長浜茶臼山古墳のふもとには、ほ場整備工事に伴う発掘調査で発見・発掘調査された西山古墳(円墳)や神塚古墳(方墳)がありますが、現在でも周囲から見学できるものとしては、垣籠古墳(前方後円墳、滋賀県指定史跡)があります。
(松室孝樹)

◆アクセス
【公共交通機関】JR長浜駅からバス(長浜市内循環線もしくは伊吹登山口線)今荘橋下車、徒歩10分
【自家用車】北陸自動車道長浜IC下車、10分
長浜市東上坂町

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