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新近江名所図会

新近江名所圖会 第340回 俳句がとりむすぶ人々の墓地―竜ケ丘俳人墓地

大津市
写真1 JR膳所駅から俳人墓地の方向を望む
写真1 JR膳所駅から俳人墓地の方向を望む

竜ケ丘俳人墓地は、JR琵琶湖線膳所駅のホームから南側をみると、目の前に崖状の段差があり、その上には建物が建ち並んでいます。建物群の向こうには、東西に国道1号線が走っており、建ち並ぶ建物群の間に、通過する車が見えかくれしています。よく見ると、建物の間にわずかに樹木が繁った部分があることに気づきます(写真1、現在北側隣接地が工事中です。建物が建設されるようで、近い将来にはさらに見通しが悪くなりそうですが・・)。ここが今回ご紹介する竜ケ丘俳人墓地(以下、俳人墓地と略す)です。なお、この墓地は大津市の史跡に指定されています。
この竜ケ丘俳人墓地とは、近江に何度も滞在し、その地を第二の故郷と感じるにいたった俳聖-松尾芭蕉の高弟等、蕉門にかかわる人々が眠る墓地のことです。つまり、血縁や地縁を媒介に形成されることの多い普通の墓地とは異なって、俳句を媒介として繋がった人々が形成した(現在も形成しつつある)墓地なのです。

〇位置と道のり
さて、この俳人墓地のあたりでは、膳所市街地の南側の丘陵―浅井山から北へむかって丘陵がいくつものびています。俳人墓地をふくむ膳所駅構内の西半分あたりは、こうした丘陵の一つの上に相当しています。現在は市街化が進行し、本来の地形が分かりにくいのですが、注意深くみてみると、膳所駅の東西には谷状地形が残り、それぞれの谷底付近には、一部暗渠となっているものの、現在も河川が流下しています(西側の川は諸子川、東側の川は堂ノ川)。ちなみに、さきほど駅ホームから見えた崖状の段差は、膳所駅を建設するさいに、丘陵先端を削り取ったために形成されたものでした。

写真2 国道1号からみた墓地
写真2 国道1号からみた墓地

それでは俳人墓地へ向かいましょう。JR膳所駅から東側の連絡橋をわたると、すぐ国道1号線にでます。そこを右折し西側へ進むと、5分もかからずに俳人墓地に到着です(写真2)。目印は隣接する有名ラーメン店の看板です。夜間でも看板や周囲の店舗の電飾で明るいほどです。その手前に「史蹟竜ケ丘俳人墓地」と刻された石碑(大正14年建立)があって、その脇の石段を上がると墓地に到着です。
俳人墓地の西・北側はラーメン店の駐車場と、東側は企業事務所と接しています。南側は国道1号線と面しており、国道をひっきりなしに自動車が通過しています。これら建物・道路に囲まれた一角に残された狭小な空間が竜ケ丘俳人墓地です。墓地の周囲には生垣が、敷地内には低木が繁っているので、周囲とは区切られているものの、やはり国道を通過する自動車の姿が視野に入ってきますし、通過音も響いてきます。とはいえ、頭のなかで時計を江戸時代までさかのぼらせてみると。見晴らしのよい丘陵上であったこの付近からは、眼下には琵琶湖とその背後の湖南の平野が一望できたことでしょう。

〇残された墓碑等
階段を上がると、狭小な墓地の中には、現在、22基の墓碑等が確認できます。これらの墓碑の形・大きさ・石材はさまざまで、17基が東南方向へ開いた馬蹄形に配置され、さらにその北辺には5基が列状に配置されています(図1・写真3)。馬蹄形に配置された墓碑等について、時計回りに紹介しましょう(以下の円括弧内は、図1番号:別号/碑身形態/没年/建立年について、判明するものを記入してあります)。

写真3 俳人墓地
写真3 俳人墓地

・「釋景山尼」(1:方柱型/天保7年没)
・「巴静碑」(2:方柱型/延享元年没)
・「祐昌墓」(3:自然石/文化4年没)
・「(判読困難)木喰心誉法印」碑(4:地蔵尊型)
・「東華坊」墓(5:支考/円盤型/享保16年没)
・「山住訥堂除髪塔」(6:無縫塔/享保17年没)
・「経塚」(7:自然石/元禄16年建碑)
・「丈艸」墓(8:自然石/元禄17年没)
・「正秀墓」(9:方柱型/享保8年没)
・「(判読困難)」(10:無縫塔/元禄七年?)
・「雲裡坊」(11:自然石/宝暦11年没)
・「文素 可風」墓(12:自然石/〔文素〕明和5年没・〔可風〕明和4年没)
・「蝶夢法師」墓(13:自然石/寛政7年没)
・「松琵翁之墓」(14:方柱型/寛永3年没・同4年建碑)
・「梅室そりけつか」(15:剃髪塚/自然石)
・「(刻銘判読困難)」(16:蟻洞墓と推定される/方錐型/明治15年没)
・「方堂」(17:自然石/昭和38年没)。
さらに北辺の5基については以下のとおりです。
・(18:「芝蘭子」墓/自然石/昭和46年没)
・(19:「石鼎」/自然石/昭和57年没)
・(20:「孝雄」/自然石/平成7年没)・(21:「桂一」/自然石/平成28年没)
・(22:「昭男」/自然石/令和元年没)。

図1 竜ヶ丘俳人墓地平面図
図1 竜ヶ丘俳人墓地平面図

これらのうち、最も古い例は元禄16年の「経塚」(図1-7)です。先述したとおり、丈艸が師匠の追善供養のために建立した経塚に相当します。つぎに翌17年に没した丈艸本人の墓碑(「丈艸」墓、図1-8)があります。これらは一抱え程度の小ぶりな自然石で、慎ましささえ感じさせます。これら墓碑等の形態は多様ですが、多様なバリエーションの中から特定の形態が選択された背景についてはよく分かりません。今後、同時代の通有の墓碑等との比較によって検討する必要がありそうです。
なお、江戸時代の事例のなかには、義仲寺にあった無名庵の歴代の庵主(第三世:訥堂、第五世:雲裡坊、第八世:祐昌、第十二世:蟻洞)が含まれています。

◆おすすめPoint
〇仏幻庵と俳人墓地
この俳人墓地が形成された場所は、元禄7年に松尾芭蕉が亡くなった後、師匠の追善供養のために石一個に経典の一文字を記す方式(一字一石経)で写経して経塚を建立しようと志した門弟の一人―丈艸(じょうそう)が、元禄10年に芭蕉墓のある義仲寺の南の山手に結んだ仏幻庵の位置に相当するとされます。現在も俳人墓地には「丈艸佛幻庵址」と刻まれた石碑(写真4)が建てられています。元禄16年に丈艸は経塚建立の志を果たし、翌17年の没後、庵内に埋葬されました。これを端緒として、その後、義仲寺内にあった無名庵の庵主等、芭蕉と所縁のある人々が埋葬されるようになり、俳人墓地が形成されていったと理解されることが多いようです。
このような理解だと、丈艸による仏幻庵の場所=その後に俳人墓地が形成された場所=現在の俳人墓地、という図式が成り立つことになります。しかし、これに対しては異論が示されています。膳所地域の歴史に精通された郷土史家の竹内将人氏は、諸史料を検討した結果、以下の変遷を想定されています。

写真4 史跡仏幻庵碑
写真4 丈艸佛幻庵址の石碑

【竹内説】
まず、丈艸が仏幻庵を結んだ場所は「俳人墓地から国道を隔てた少し西寄りの処」(竹内1972:p28)である。その後(元禄17年以降、宝永年間頃か)に現在の位置より「西へ約半丁許りの諸子川の川岸」(同:p28)付近に仏幻庵が移築され、丈艸墓等もそこへ改葬された。さらに、その後仏幻庵は廃絶し、墓地も荒れ果てたようで、宝暦3年の丈艸五十周忌に丈艸墓等の墓群は現在の位置に移転された。

こうした竹内氏による想定が妥当とするならば、仏幻庵の遺構はさらに西方の別の地点、少なくとも丈艸段階と移転段階の2つの地点に存在したことになります。しかし、それらの場所は不詳です。今後考古学的に追求できる余地はありますが、想定される範囲は市街化が著しく進展し、地形も大きく改変されているので、遺跡の発見は容易ではないことは残念です。

〇いまも機能する俳人墓地
このように俳人墓地の変遷については、成立から現在にいたるまで、まだ課題が残っているのですが、少なくとも、現在の位置に移転して以降は俳人墓地として広く周知されています。それとともに、この俳人墓地は、今も俳人の墓地として機能していることが墓碑から分かるでしょう。いうまでもなく、墓地内には江戸時代の墓碑等16基にくわえて、明治期1基・昭和期3基・平成期1基、さらには令和期1基の墓碑が存在するからです。俳句が取り結ぶ人々のつながりは、江戸時代以降途切れることなく継続していることに正直驚かされました。

◆周辺のみどころ
膳所駅まで戻り、駅前のロータリーから北側の琵琶湖方向へ向かって坂を下ると、5分ほどで旧東海道との交差点にいたります。この交差点を左折すると、すぐに義仲寺の門前に到着。義仲寺は木曽義仲の墓所であるとともに、松尾芭蕉の墓所であることはいうまでもないでしょう。義仲公墓・芭蕉翁墓とともに多数の句碑、芭蕉をまつる翁堂、関連史料を展示した史料館等が等があります。併せて見学されることをお勧めします。ちなみに、境内全域が昭和42年に国史跡に指定されています。(辻川哲朗)

◆アクセス
【公共交通機関】JR膳所駅から徒歩10分
【自家用車】名神高速道路大津IC下車、国道1号を草津方面に10分

※大津市竜ケ丘3丁目

【主要参考文献】(著者名・機関名50音順)
梅原與惣次(1988)『芭蕉と近江の人びと』(近江文化叢書29)サンブライト出版
竹内将人(1972)『龍が岡の仏幻庵と俳人塚』財団法人芭蕉翁遺跡顕彰会
義仲寺(刊行年不明)『国指定史跡義仲寺案内』

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