記事を探す

新近江名所図会

新近江名所圖會 第260回 「大日山」の掘削 ―大津市黒津町―

大津市

近年、地球温暖化の影響なのか1時間あたりの雨量が50mmを超える雨が頻発し豪雨災害を招くなど、雨の降り方が局地化、集中化しています。先日の台風18号の上陸の際も、誰もが豪雨に見舞われないか、心配されたことでしょう。
古くから琵琶湖や河川の周りで暮らす先人たちが、豪雨による洪水などの水害に頭を悩ませたことを知ることのできる痕跡をご紹介しましょう。

下流から大日山を望む
下流から大日山を望む

琵琶湖から流出する唯一の河川である瀬田川を下り、石山寺を過ぎて少しいくと東岸に低い山が見えてきます。この山は県下で最も低い山(標高129m)と言われる「大日山」で、実はこの山が古くから豪雨に見舞われるたびに、先人たちの生活を脅かす原因になっていました。というのも、もともとこの「大日山」は瀬田川に大きく張り出し、瀬田川の川幅が急に狭くなっていたのです。そのせいで上流が豪雨に見舞われるとこの一帯が堰き止められたような状態になり、一気に水量が増し上流に洪水をもたらすことが頻繁に起こっていました。
洪水と人との攻防は、奈良時代まで遡ります。僧行基は、洪水を防ぐにはこの大日山を削るしかないと考えましたが、下流への氾濫を恐れ、計画を断念しました。行基は山を削ることをいさめるためにここに大日如来を祀り、山に手をつけると祟りが起こるとの言い伝えを残しています。
江戸時代には、被害を被った周辺の村々から川浚えの願い出が何度も出され、川底の浚渫、砂地や葭地の撤去、堤や杭柵の設置等が幕府の指示で行われました。しかし、根本的な解決にはならず、それにかかる経費も莫大なもので、当初は幕府の負担で行われましたが、幕府の財政が苦しくなると近江国の村々の負担(国役方式)が多くなっていたようです。元禄12年に工事の指揮をとった河村瑞賢は、瀬田唐橋から旧洗堰までの間の東岸を削るとともに、黒津八島と呼ばれた中州を浚渫して2つの島としました。

大日山の掘削前と後
大日山の掘削前と後

一方で、川浚えにより一気に水流が多くなると、下流の京都や大阪の村々から反対運動も起こりました。明治時代になっても再三、洪水が起こり、なかでも明治29年の集中豪雨は甚大な水害をもたらしました。9月7日から降り出した雨は12日まで断続的降り続き、鳥居川量水標は観測史上最高のプラス409mの水位に達しました。この大洪水による被害は琵琶湖沿岸に留まらず、下流の京都や大阪にもおよび、これを契機に、国をあげての淀川水系治水工事が行われることになりました。明治33年から瀬田川の浚渫工事が始まり、翌34年には大日山の切り取り工事が行われ、さらに明治35年には南郷洗堰(旧南郷洗堰)の建設工事が行われました。角材を落として水の調整を行うという現在の技術水準と比べると単純なものでしたが、この洗堰により琵琶湖の水位は安定し、沿岸部の水害の軽減と工業用水や農業用水の確保に大きく貢献することになりました(一部の堰が残存)。その後、昭和36年にはこの洗堰に変わって、現在の洗堰が建設されました。
現在、現地を訪れてもこのような先人たちの苦労や足跡を感じることは難しかもしれませんが、古い地形図を片手にあらためて人と自然との葛藤の痕跡に思いを馳せてみてはみてはいかがでしょうか。

吉田秀則

【周辺の見どころ】
大日山の丘陵上には、行基が祀ったと伝えられる大日堂、2支群からなる古墳群(1977年に滋賀大学が測量調査を実施)が分布します。
昭和36年に建設された現南郷洗堰と120m上流に旧南郷洗堰の一部が残っています。

Page Top