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新近江名所図会

新近江名所圖會 第371回 秀吉時代の石垣が残る城―近江八幡市八幡山城跡―

近江八幡市
写真1 本丸南西隅の石垣(上から7段目までが矢穴技法で割られた石材)
写真1 本丸南西隅の石垣(上から7段目までが矢穴技法で割られた石材)

 天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変により、織田信長は自害し、築城からわずか6年で安土城は落城し、天主も消失します。
 本能寺の変から3年後の天正13年(1585)、羽柴秀吉は信長の後継者である織田信雄を屈服させて近江を手に入れると、自らの後継者に期待する甥の羽柴秀次に近江を与え、近江統治の拠点として安土とは指呼の間に位置する八幡山に築城させ、城下町も建設させます。
 築城に当たっては、安土城内に残る施設や石垣がリユースされました。また、城下には安土城下町を移転させたため、八幡山城の城下町には安土城下町と共通する町名が残っています。
 城の遺構は、標高285mの八幡山山頂の本丸のほかに二ノ丸、北ノ丸、西ノ丸、出丸と呼称される曲輪(くるわ)の石垣が往時の威容をとどめています。また、南山麓の秀次館跡とされる曲輪では巨石を使った石垣を見ることができます。

写真2 二ノ丸南東隅の石垣(隅角中ほどに宝篋印塔を転用した石材)
写真2 二ノ丸南東隅の石垣(隅角中ほどに宝篋印塔転用の石材あり)


 天正18年(1590)、秀次は徳川家康の関東移封に伴い尾張清州(おわりきよす)城に移ります。代わって京極高次が城主となりますが、5年後の文禄4年(1595)、秀次が謀反の嫌疑により切腹させられると八幡山城は廃城となり、高次は大津城に移ります。
 なお、秀次館跡の発掘調査では、安土城の金箔瓦とは金箔の施し方が異なる金箔瓦が多数出土しています。また、大津城跡の発掘調査では秀次館跡で出土したものと似た金箔瓦が出土しています。高次が大津城に移る際に八幡山城の施設を再利用したためと考えられます。
 秀吉は、長浜城、姫路城、山崎城、大阪城、伏見城などを築城しますが、どの城も秀吉時代の面影は残っていません。しかしながら、八幡山城は築城からわずか10年で廃城となるため、山上の石垣の大部分は後世の改修を受けることなく現在に至っています。そのため、八幡山城では秀吉時代の石垣をみることができるだけでなく、安土城から10年後の石垣の技術水準をうかがうことができます。
(なお秀次像については新近江名所圖会第300回を参照。)

写真3 二ノ丸南東隅石垣角の宝篋印塔を転用した石材
写真3 二ノ丸南東隅石垣角の宝篋印塔を転用した石材部分近景

◆おすすめPoint
 本丸南西隅の石垣は、石垣の上部に矢穴(やあな)技法(※)で割られた石材が使われています。ほかの石垣隅部ではこのような石材は確認できません。京極高次が城主の時代に改修された石垣と考えられます。(写真1)
 二ノ丸の石垣では、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の転用石材や観音寺城と同じような矢穴痕がある石材をみることができます。矢穴のないものは安土城から運ばれた石材の可能性もあります。(写真2・3)
 ※矢穴技法:石材を金づちと鑿(のみ)を使って「矢穴」とよばれる穴を列状に彫り、「矢」とよばれる鉄製の楔状の道具を矢穴にさしこみ、ゲンノウ(鉄製の槌)で叩いて石に亀裂をつくって、石を割り取る技法。

◆周辺のおすすめ情報

写真4 信長の金箔瓦(安土城考古博物館展示)
写真4 信長の金箔瓦復元品(安土城考古博物館展示)


 滋賀県立安土城考古博物館の第2常設展示室では、安土城から出土した金箔瓦のほか、信長や秀吉に関連した城から出土した金箔瓦の復元品が展示してあり、信長と秀吉の金箔瓦の特徴を学ぶことができます。(写真4・5)

◆アクセス
【公共交通機関】JR琵琶湖線近江八幡駅下車、近江鉄道バス「大杉町」下車徒歩5分
八幡山頂駅下車すぐ
【自家用車】名神高速道路八日市ICまたは竜王ICから15分、駐車場あり
【八幡山ロープウェー】               

写真5 秀吉の金箔瓦(安土城考古博物館展示)
写真5 秀吉の金箔瓦(安土城考古博物館展示)


・営業時間:午前9時~午後5時(年中無休)
・運行時間:毎時15分間隔で発車。(登り午後4時30分最終)
 (山麓から山頂までは、約4分。)
・料金:おとな 片道500円、往復890円
    こども(6歳以上12歳未満)片道250円、往復450円
・電話:0748-32-0303 

(藤崎高志)

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