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新近江名所図会

新近江名所圖會 第437回 今も残る旧野洲川の景観 ―守山市笠原町の南流の堤防―

守山市

 日本最大の湖である琵琶湖には、大小多数の川が注ぎますが、そのひとつに野洲川があります。流域面積は387㎢を誇る、県下最大の河川です。流域面積が広い河川であるためか、水量が豊富であるとともに、流入土砂の供給量も多くなります。従って、勾配が緩い河口付近では土砂の堆積が著しくなり、三角州を形成しつつ、大小の流路が入り乱れる地形となってしまいます。このような不安定な地形は、耕作地としての開発が困難ではありますが、河川を制御することにより、開発が可能となります。

 河川を制御するということは、大小の流路が入り乱れる河川を堤防で固定するということです。かつて野洲川は、河口付近の守山市笠原町から、北流と南流に分かれ、いつの時代に築かれ始めたのか分からない、見上げるほどの堤防が築かれていました。自然の摂理に反する人工堤防は、度々破堤して水害をもたらしました。

 昭和46年(1971年)12月、北流と南流を廃川とし、両流路の中央に放水路を開削する工事が始まり、昭和54年(1979年)6月に通水が始まりました。放水路の完成により、水害の確率は大幅に低くなりました。

参考図 国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所『野洲川放水路通水40周年「これまで」と「これから」』より抜粋、トレース、加筆。赤丸が撮影地点で、下のグーグルマップの赤丸にほぼ相当する。

 このような開発困難地でありながら、南流の南側では弥生時代末~平安時代の遺跡が確認されています。とくに、笠原南遺跡では、奈良時代から平安時代の溝に区画された屋敷跡がみつかっており、硯に転用した土器や墨書土器など、古代の官衙跡でみられるような遺物が出土しています。また、最近の調査では、弥生時代末~古墳時代初頭の前方後方形周溝墓などが出土しています。

 放水路部分の調査では、弥生時代前期の水田跡や、中期の方形周溝墓群などがみつかっています。時代によって堆積環境が異なる場合もありますが、開発困難地でありながらも、積極的に土地利用されてきたようです。 

 野洲川放水路の完成後も、北流と南流の堤防は部分的に残されています。写真①は、笠原町に残される南流の堤防です。旧堤防の内側には放水路堤防があります。同じ河川でありながら、二重の堤防がみられる不思議な景観です。写真②は旧堤防ですが、直線的な放水路堤防と異なり、アーチを描いています。写真③は、撮影地点から西へ少し行ったところにある水害記念碑です。記念碑のとなりには説明板があり、昭和の水害の様子が記されています。写真④は、旧堤防が放水路堤防から離れていく地点です。ここから南流堤防は南へ向かいます。河川堤防としての面影は薄くなっていますが、耕地や公園として利用されています。

写真① 撮影地点より西側(比叡山方面)を望む
写真② 写真➀から西へ数百メートル進んだ場所から同じく西側を望む
写真③ 撮影地点のそばにある記念碑
写真④ 撮影地点付近から東側(三上山方面)を望む

 見上げるほど高く積み上げられた堤防は、河床を上昇させ、天井川への道をたどっていき、豪雨時には水害をもたらせます。放水路の開削は、水害を回避できますが、川とヒトとの営みや、災害の記憶を忘れさせてしまいます。かつての旧堤防は、ヒトと川と大地の記憶として必要なのです。

(調査課 重田 勉) 

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