記事を探す

新近江名所図会

新近江名所圖會 第438回 「近江毛野臣」墓の伝承地をめぐる3―野洲市内の伝承地,林ノ腰古墳 

野洲市

 古代の近江地域には、あちこちに古代豪族が盤踞していたことが古代史研究の結果、明らかになっています。それらの豪族のなかで、近江という名を冠する古代豪族「近江毛野臣」(おうみけののおみ)に関係した遺跡をめぐる旅をはじめて、今回3回目となりました。

近江の古代豪族―「近江毛野臣」

 あらためて彼のことを確認しておきましょう。「近江毛野臣」は『日本書紀』に登場する豪族の一人。その名からわかるように近江出身の豪族です。『日本書紀』には、継体天皇の頃、天皇の命により新羅征討将軍として韓半島南部地域に派遣されましたが、いろいろあった (なにがあったのか興味があるかたは、ぜひ『日本書紀』を読んでみてください) 末に本国へ召還されますが、その帰路、対馬で病死してしまい、遺骸は近江に帰葬された、と記されています。つまり、『日本書紀』の記述によれば、彼の墓は近江に存在することになります。継体天皇が活躍したのは6世紀前半頃-ちょうど古墳時代後期前葉頃に相当し、全国各地で前方後円墳等の古墳がたくさん築造されていたころにあたります。ですから、帰葬された「近江毛野臣」の墓は、まさに前方後円墳に代表される古墳であったとみて大過ないでしょう。

あちこちに推定される「近江毛野臣」墓

 このように、近江地域の出身で、故郷に埋葬されたと文献に記されていることもあって、現在の滋賀県内には「近江毛野臣」の伝承地や、その墓と推定される古墳等があちこちに存在します。なぜ、一つではなく複数あるのかというと、『日本書紀』に埋葬地に関する詳細な記述がなく決め手に欠いたためでしょう。

 おそらく近世以降、今にいたるまで、先述した『日本書紀』の記載にもとづいて、「近江毛野臣」の墓や伝承地として複数の場所が推定されてきました。ただし、それらの根拠は、現在の研究レベルからみると十分とはいいがたいものも含んでいるのですが、人々がその時代の研究レベルで推定した試案です。「近江毛野臣」の本当の墓かどうかは別として、ある時代の人々が当時えられた材料をもとに検討して、その場所を「近江毛野臣」の墓と考えたことには間違いないでしょう。

 そこで、これらの関連地や推定地をたどってみたいのですが、前々回(412回)では、長浜市平方町八幡宮にある石碑を紹介し、前回(424回)には米原市山津照神社古墳を取りあげました。第3回目となる今回は、野洲地域の伝承地と関連すると考える古墳―林ノ腰古墳を紹介します。

大岩山古墳群

 多数の銅鐸が出土したことでよく知られている大岩山遺跡ですが、この遺跡周辺には、古墳時代のはじめから終末ちかくにいたるまで、複数の主要古墳が築造されています。その中にはすでに失われてしまった古墳も少なくないのですが、円山古墳・甲山古墳・天王山古墳・古冨波古墳・冨波古墳・亀塚古墳・宮山2号墳・大塚山古墳等が遺存しており、それらをひとまとめにして大岩山古墳群ともいいます。いずれも野洲地域をおさめた首長たちの墓であり、それぞれで時期をたがえることから、首長が数代にわたって築造した結果、形成された古墳群であると考えられています。

野洲地域における「近江毛野臣」の伝承地

 これらの大岩山古墳群の付近にも「近江毛野臣」の墓の伝承地があります。「三上大寺四至之図」(図1、野洲町教育委員会1983)という古図(以下、古図)には、小篠原村の東側の丘陵上に「淡海毛野臣連陵」という記載があります(「淡海」は「近江」の別名)。ちなみに、この古図は、持統朝の創建と伝え、東光寺山・妙光寺山の山麓一帯に展開したという寺院について描いたとされるものです。ただ、成立年代等の詳細は不明であり、真偽を含めてその位置づけには問題が残るので、ある段階での「近江毛野臣」の墓にかんする伝承を示すにとどまる史料です。

図1 「三上大寺四至之図」(野洲町教育委員会1983より)  左下の山形の内側に「淡海三船真人陵」が、その右上の山形の横に「淡海毛野臣連陵」が記されています。

 では、古図に示された「淡海毛野臣連陵」とは、具体的にどの古墳に相当するのでしょうか。そこで、小篠原村との位置関係を考慮しつつ付近の古墳を検索すると、まず妙光寺山の丘陵西端付近にある越前塚古墳が目につきます。この古墳は全長約49mの前方後円墳で、築造時期は5世紀末~6世紀初め頃に推定されます。後円部には横穴式石室が開口していましたが、近年に危険防止のために入口が閉鎖されたので、現在は石室を見ることはできません。

 ただ、古図には「淡海毛野臣連陵」の西側に「淡海三船真人陵(おうみのみふねのまひとのみささぎ)」が示されていて、描かれた道路・集落・丘陵との位置関係からみると、越前塚古墳は「淡海三船*真人陵」の方に該当するようです。そうなると、越前塚古墳からさらに東側の丘陵上に「淡海毛野臣連陵」を想定することになります。しかし、現状ではその付近に古墳は確認されていません。どうも特定の古墳が「近江毛野臣」墓として伝承されていたわけではなかったようです。このように野洲地域では、伝承地はあるものの、具体的にどの古墳や場所にたいしてそのような伝承がなされていたのか確定しがたい状況であることがわかりました。その一方、伝承はないけれども、遺跡のあり方からみて「近江毛野臣」墓に推定する余地がある古墳があります。それが林ノ腰古墳です。

林ノ腰古墳

 越前塚古墳の位置する丘陵の西側の平野部において、発掘調査によってあらたに発見された古墳です。調査前は真っ平な田んぼでしたので、古墳が存在することは全くわかりませんでした。小規模な調査を何度もくりかえした結果、全長約90mの前方後円墳であり、周囲に二重に周溝をめぐらした古墳であることが判明したのです。墳丘は後世に削り取られてしまい、周溝の一部のみが遺存する状態で見つかりました。周溝内からは多量の埴輪が出土したほか、「木製埴輪」や須恵器なども出土しました。埴輪は須恵器の特徴から、築造時期は6世紀前葉頃に推定されますから、ちょうど継体天皇の活躍した時期と重なることになります。

 林ノ腰古墳について、とくに注目したいのは墳丘の形(平面形態)です。というのは、林ノ腰古墳の墳丘平面形態は、大阪府高槻市の今城塚古墳の平面形態を1/2に縮小した形態とほぼ同じであるからです。ちなみに、今城塚古墳は、多くの古墳時代研究者によって真の継体天皇の墓と考えられている古墳。そして、このように、古墳の規模は異なるけれども、その形(平面形態)が共通する古墳が存在する背景には、墳丘平面形態の「設計図」があり、それが大王から地域の首長への配布された結果、各地に大王墓の縮小版の古墳が築造されたと想定できます。

 以上の考えによると、林ノ腰古墳の被葬者は、その造墓にあたり、継体天皇から古墳の「設計図」など古墳築造にバックアップをえられるような人格だったことになります。継体天皇の時代に、継体天皇との親しい関係をとり結べた近江の首長の候補の一人として「近江毛野臣」をあげることができるでしょう。このような林ノ腰古墳は、発掘調査の原因が宅地開発であったため、古墳の上には宅地が立ちならんでいますが、その一部が公園となっています(写真1)。

写真1 林ノ腰古墳の現況 

おわりに

 今回、近江毛野臣との関係をもとめて野洲市内の古墳をおとずれてみました。伝承地についてはその所在や経緯などは確定できませんでしたが、伝承は伝えられていないけれども、古墳の特徴などから「近江毛野臣」の墓の候補になりうる古墳として林ノ腰古墳をとりあげてみました。越前塚古墳・林ノ腰古墳はいずれも比較的駅から近くて見学しやすい場所にありますので、周辺の大岩山古墳の諸古墳も含めて、機会をみてぜひ一度見学されることをおすすめします。

◆アクセス

越前塚古墳 JR琵琶湖線「野洲駅」下車、徒歩約14分。*駐車場はありません。

林ノ腰古墳 JR琵琶湖線「野洲駅」下車、徒歩約14分。*駐車場はありません。

*ちなみに、「淡海三船」とは奈良時代後期の皇族・貴族・文人で、その活躍時期と越前塚古墳の築造時期とは大きく異なりますので、「淡海三船陵」という推定は成立しがたく、やはりある段階の伝承にとどまるものです。

文献

辻川哲朗(2010)「近江・林ノ腰古墳の再検討」『同志社大学考古学研究会50周年記念論集』50周年記念論集編集委員会

野洲町教育委員会(1983)『野洲町内遺跡分布調査報告書』

(調査課 辻川哲朗)

★★ お知らせ ★★

滋賀県立安土城考古博物館 第71回企画展「近江―道が織りなす物語―」

 当協会が指定管理者として運営している滋賀県立安土城考古博物館では、2026年2月14日(土)~2026年4月5日(日)に、上記テーマで企画展を開催します。

 近江(滋賀県の旧国名)は、奈良時代以降、都の置かれた畿内と隣り合う場所として重視され、「道の国」と呼ばれるほど交通網が発達しました。
 古くは「唐橋」と呼ばれた瀬田橋や、織田信長が安土城築城を機に整備した街道など、今なお使われ続ける道もあります。人の行き交う道には、名物もつきもの。風光明媚な景色を描く「近江八景」の浮世絵や、茶の湯の流行にともなって作られた比良焼や臨湖焼といった雅趣に富む焼き物も、道を通じて広まりました。本展では、「この道を通ったのは誰か?」という視点から、県内の考古資料や絵画、古文書、工芸品を紹介します。

 詳しくはコチラのサイトをご参照ください。お待ちしております!

Page Top