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新近江名所図会

新近江名所圖会 第333回 じつは光秀だけじゃない?あの人ともつながりがあるお寺-大津市西教寺

大津市
写真1 本堂
写真1 本堂

NHK大河ドラマ『麒麟が来る』の放送を機に明智光秀ゆかりの地をめぐる方々が増えているようです。今回はそうした光秀ゆかりの地の一つとして大津市の西教寺をご紹介します。
京阪石山坂本線の坂本比叡山口駅で下車し、西へ向かうと坂本里坊の風情漂う街並みが広がります。しばらく歩き日吉大社の鳥居が見えてきたところで北に折れさらに歩くこと約20分。西教寺の総門に至ります。
西教寺は天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山で、正式名称は戒光山兼法勝西教寺といいます。お寺の縁起によると開基(創立者)は聖徳太子とされます。『真盛上人往生伝記』によれば、平安時代に慈恵大師(良源)が庵を結び、恵心僧都(源信)が道場にしたことに始まります。その後、長らく荒廃していたようですが、鎌倉時代に恵慎上人により復興されました。文明18年(1486)に入寺した真盛上人の布教活動によって武家・公家・民衆にいたるまで広く信仰を集めるようになり、各地に末寺が増えていくこととなります。

写真2 煕子の墓
写真2 煕子の墓

しかし、元亀2年(1571)に織田信長による比叡山焼き討ちの際、西教寺も破却されてしまいます。その後、復興が進みますが現在見られる堂舎が整備されたのは江戸時代に入ってからのことです。重要文化財である本堂(写真1)もその一つで元文4年(1739)に上棟が行われています。
さて、比叡山焼き討ちの後、坂本の地には明智光秀が入り坂本城を築城し地域支配の拠点としますが、光秀が西教寺の復興を援助したと考えられています。実際、光秀と西教寺のつながりを示す文化財が多く残されています。元亀4年(1573)の今堅田の戦いで討死した家臣18名を弔うため、西教寺に供養米を寄進した際の文書(「明智光秀供養米寄進状」)は部下を思いやる光秀の人柄を偲ばせる史料として知られます。また、本堂近くには光秀の正室・熙子の墓(写真2)や明智光秀の供養塔も建てられています。総門も坂本城の城門を移築したものと伝わっており、重要文化財の梵鐘も坂本城の陣鐘とされています。

◆おすすめPoint
このように光秀との縁が深い西教寺ですが、実は光秀を破った豊臣秀吉ゆかりの建造物も存在します。客殿(写真3、かつては住職・住持の居所的建物である方丈として使われていた)は慶長3年(1598)、秀吉の家臣・大谷吉継の母と山中長俊の妻が檀越(寺や僧に布施をする信者)となって、伏見城の御殿の一部を移築したものなのです。

写真3 客殿
写真3 客殿

各地に見られる伏見城からの移築建物は、関ケ原の合戦後の徳川家康が再建した伏見城のものが多く見受けられますが、西教寺の例は関ケ原の合戦前の移築であり、秀吉存命中に建てられた建物であったこととなります。敵対した光秀と秀吉、二人それぞれにゆかりの文化財が見られる点でも実に興味深く感じられます。なお、この客殿には庭園(写真4)もあり、作庭家として有名な小堀遠州によるものと伝わります。

見どころたくさんの西教寺。坂本周辺を訪れた際にはぜひ足をお運びになってはいかがでしょうか。

◆周辺のおすすめ情報
坂本比叡山口から西教寺へと至るルート上に位置する日吉大社も西教寺と併せて訪れておきたいスポットです。この日吉大社も比叡山焼き討ちの際に織田方に焼かれているのですが、のちに豊臣秀吉が復興に力を入れており、境内には秀吉による復興の際に建てられた建物が数多く残っています。また、光秀つながりでは、坂本城跡(名所圖会 第282回)や遺構を移築した聖衆来迎寺の表門(名所圖会 第114回)などもおすすめです。(山口誠司)

写真4 客殿の庭園
写真4 客殿の庭園

◆アクセス
【公共交通機関】JR湖西線比叡山坂本駅もしくは京阪石坂線比叡山口下車、江若バス西教寺前すぐ。徒歩の場合それぞれ30分、20分
【自家用車】国道161バイパス滋賀里ICから15分 駐車場有

所在地:大津市坂本5丁目13-1

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