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調査員おすすめの逸品第155回 サザエさん 何処へ?-野洲市大岩山出土4号銅鐸・7号銅鐸

野洲市

安土城考古博物館のメインとなる展示物の一つに、昭和37年に野洲市大岩山から出土した10個の銅鐸があります。一括して重要文化財に指定されているもので、数個の本物とレプリカをまじえて展示しています。なお、野洲市の銅鐸博物館にも本物が展示されています。また、大岩山からは明治14年にも14個の銅鐸が出土していますが、これらは東京国立博物館やミネアポリス美術研究所などに分散していて、当館での通常展示はありませんが、野洲の銅鐸博物館ではレプリカが見られます。
さて、小学生などの団体に博物館の展示を説明する時、私はこの10個の銅鐸を二つに分けてみよう、という質問をすることにしています。子供たちはいろいろと考えて、大きさで分けてみたり、模様で分けてみたり、あるいは色で分けてみたり、熱心に意見を言ってくれます。余談になりますが、「色で分ける」のは、実に本質をついた視点です。10個の銅鐸の内、9個については3個ずつが「入れ子状態」で埋められていたため、外側と内側の銅鐸では、土の付き方や錆び方が異なります。実際に現物をよく見ると、それを示すように微妙に色合いが異なっているのです。多くの銅鐸は綺麗に土を落として保管・展示されますが、大岩山銅鐸は、その状態が観察できるように土を残しています。色の違いで分類を試みた子供たちは、この保管・展示の意図を見事に理解してくれているのです。さらに、この保管・展示の方法を考えられたのは、先日お亡くなりになられた水野正好先生です。あらためて先生の偉大さに感動です。

写真1 「さざえさん組」(10号銅鐸)
写真1 「さざえさん組」(10号銅鐸)
写真2 「波平さん組」(8号銅鐸)
写真2 「波平さん組」(8号銅鐸)

それはともかく、私のもとめる正解は、「サザエさんの頭」と「波平さんの頭」で分けるというものです。10個の銅鐸は、鈕(吊り手)の部分に「双頭渦文」と呼ばれる、まさに「サザエさんの髪型」のような装飾がついているもの3個(写真1)と、「波平さんの頭」よろしく丸いだけのもの7個(写真2)に分けることができるのです。そして、非常に乱暴な話になるのですが、「サザエさん組」は確実に近畿地方で作られた銅鐸(近畿式銅鐸)で、「波平さん組」のうちの3個は、愛知県の東部や静岡県で作られた銅鐸(三遠式銅鐸)と話をすすめます。サザエさんを手がかりに、銅鐸の製作地、そして両者の銅鐸がまじっている大岩山銅鐸の重要性にせまるという次第です。ちなみに、「波平さん組」の残りの内の2つは、少し古いタイプの銅鐸です。

写真3 4号銅鐸
写真3 4号銅鐸
写真4 7号銅鐸
写真4 7号銅鐸

ここで、本日のおすすめの逸品となるのは、「波平さん組」の最後の2つの銅鐸、4号鐸と7号鐸です(写真3・4)。この二つの銅鐸は、他の模様などの点から近畿式銅鐸に分類できます。したがって、本来「サザエさんの髪型」である双頭渦文を持っていたのですが、なんらかの理由で双頭渦文が取り外されているのです。一見すると「波平さん組」なのですが、よく観察すれば、サザエさんの痕跡が少し残っていたり、あるいはその付近が割れていたり、残酷にも「サザエさんの髪」が切り落とされ「波平さん」になってしまった経緯が理解できるのです。
なぜ、こんなことになってしまったのか?実は、謎としかいいようがないのですが、われわれが考えている以上に、近畿式銅鐸と三遠式銅鐸には大きな違いがあって、とりあえずパッと見を「三遠式らしく」仕上げる必要があった、などの理由が考えられるかもしれません。また、最近の発掘調査では、壊された銅鐸が見つかることが多々あります。滋賀県でも守山市下長遺跡からは、まさに「サザエさんの髪」だけが出土し、これは4号鐸や7号鐸にくっつきそうな代物です。いずれにしろ、銅鐸の破壊は銅鐸の祭りを否定することと考えられ、銅鐸の祭りが終わりを迎える頃の特徴的な現象です。4号鐸と7号鐸の二つの銅鐸も、こうした銅鐸破壊の謎に迫る資料とも考えられるでしょう。
このように、4号鐸と7号鐸は、銅鐸の終わりとも関連する重要な銅鐸として、今回の逸品としたわけですが、それにしても、切り落とされた「サザエさんの髪」は何処へ行ったのでしょうか?裸足で飛び出したまま・・・・・。
(細川修平)

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