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調査員のおすすめの逸品 №306 火の用心ー江戸時代の防火と桟瓦ー

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江戸時代、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど火事が多かったことをご存じの方も多いでしょう。明暦3年(1657年)の明暦の大火(江戸)をはじめとして、享保9年(1724年)の妙知焼(大坂)、天明8年(1788年)の天明の大火(京都)など大都市を中心に火災が多発していました。防火政策と屋根作りが切っても切り離せないことをご存じでしょうか。
明暦の大火以降、幕府による建築規制が行われ、明暦3年2月には江戸で国持の大名でさえ土蔵を除いて瓦葺屋根が禁止されました。また、従来の屋根に用いられていた茅葺や藁葺、板葺などを禁止し、塗り屋根(=茅葺などの上に土を塗る)、芝屋根、牡蠣殻葺にするよう命じられています。以降も触書で燃えやすい素材である茅、藁、板の屋根材を禁止し、土や牡蠣殻を屋根材に用いるよう命じています。

写真1 桟瓦
写真1 桟瓦

そんな中の延宝2年(1674年)に近江国三井寺の瓦職人であった西村半兵衛という人物により桟瓦が発明されたと伝わります。西村半兵衛は長年、従来の丸瓦と平瓦を組み合わせて葺く瓦葺を軽くするかを考えていました。当時の江戸では「火除瓦」と呼ばれる平瓦だけを屋根に並べる葺き方をしている場所もあり、それヒントに桟瓦を発明したと伝わっています。江戸の「火除瓦」を参考にしているため「江戸葺瓦」と呼ぶべきと名付けられ、後に桟瓦とよばれるようになったと言われます(坪井1976)。詳しくは新近江名所圖會第302回をご覧ください。『西村家由緒書』によると、この時に作られた瓦は二角を切り欠いてしのぎをつけた瓦となっています。現在の桟瓦と変わらないと考えられています。桟瓦は2角を重ね合わせのため切り欠いており、正面から見ると「へ」の字のような形状をしています(写真1・2)。

写真2 桟瓦正面
写真2 桟瓦正面

さて、時が下って享保5年(1720年)に瓦葺が解禁されます。この時には「土蔵造りでも瓦葺でも土塗りの屋根でも勝手次第」とされますが、次第に瓦葺にすることを強制されていきます。享保8年(1723年)には桟瓦という言葉が登場し、「平瓦でも桟瓦でも」という文言や、「住居を小さくし、軽い瓦葺(=桟瓦)にしなさい」というように桟瓦を奨励していることがわかります。なお元文5年(1740年)には松平土佐守(土佐藩)、細川越中守(熊本藩)ら32家に対して、牡蠣殻葺を瓦屋根に改めるよう指示が出ています(寺島2002)。また、江戸だけではなく、京都でも享保15年(1730)の火災後には瓦葺が勧告され、天明の大火で広く桟瓦葺が普及するようになったとされています(杉本2000)。都市部や街道沿いでは、江戸時代後半に桟瓦葺が普及していきますが、都市周辺部や地方に普及するのは明治時代以降のこととなります。

図1 いろいろな文様の軒桟瓦
図1 いろいろな文様の軒桟瓦

現在ではかなり身近である桟瓦が、広く普及して日本家屋といえば瓦葺というイメージが作られるまでにはこのような防火政策の元、瓦の禁止・奨励・強制という数奇な流れがありました。そういった見方で屋根を見ると、印象が変わってくるかもしれません。
(福井知樹)

<参考文献>
杉本宏 2000「桟瓦考」『考古学研究』第46巻4号 考古学研究会
坪井利弘 1976 『日本の瓦屋根』理工学社
寺島孝一 2002 「『蛎殻屋根』をめぐって」『会報88』江戸遺跡研究会

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