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後期の王様

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調査員のおすすめの逸品 No.108 三人の王様-滋賀県立安土城考古博物館の復元モデル-

近江八幡市
後期の王様
後期の王様

滋賀県立安土城考古博物館には、三人の王様が勤務しています。第1常設展示室の最奥部に、「少年隊」よろしく三人並んでいます。それぞれ、安土瓢箪山(ひょうたんやま)古墳(近江八幡市)の被葬者、新開(しんがい)1号墳(栗東市)の被葬者、鴨稲荷山(かもいなりやま)古墳(高島市)の被葬者をモデルとした、4世紀・5世紀・6世紀の王様達です。三人とも結構働き者で、各地の博物館からの依頼があれば営業活動にいそしむ姿が見られ、滋賀県内は言うに及ばず、県外の人々にも人気があるようです。
さて、この三人の王様達の中で、鴨稲荷山古墳の王様については、その持ち物である黄金の巨大な沓について先に紹介したことがある(第100回)ので、今回はそのほかの二人の王様を紹介したいと思います。

前期の王様
前期の王様

まずは安土瓢箪山古墳の王様です。地味な布の服装で、装飾品も多くありません。大刀を左手に持っていますが、武力にものを言わせた王様ではなく、右手に持つ杖で人々を導いた、そんな姿とも言えるでしょう。4世紀の王様は司祭者的と言われることもある、そんな姿をイメージしたものです。しかし、それは世を忍ぶ仮の姿。王様の向かいに復元してある安土瓢箪山古墳の竪穴式石槨にこそ真実の姿が隠されています。その中を覗けば、予想外に多くの武器類が副葬されていることがわかります。特に、まとまって副葬されている銅鏃は、雪野山古墳のようにユギに納められていたことも想定でき、武威を知らしめる効果は絶大です。また、棺の北端には、当時ではまだまだ類例の少ない鉄製の短甲が納められています。朝鮮半島の影響を受けて生み出された、最新・最強の武具と言えるでしょう。すなわち、安土瓢箪山古墳の王様の真実の姿は、最新の武装で身を固め、武威を誇示する、そんな軍事指導者だったのです。穏やかな司祭者としての姿の裏に強力な武人としての姿を秘める、4世紀の王様の複雑な性格が見えてきます。

中期の王様
中期の王様

次に、今一人の王様、新開1号墳の主を見てみましょう。全身黒づくめ、ガンダムさながらに体の多くの部分を鉄の鎧で身を固めています。眉庇(まびさし)付冑・頸甲(あかべよろい)・肩甲(かたよろい)・籠手(こて)・短甲(たんこう)・草摺(くさずり)・脛当(すねあて)と、当時としては完璧な武装を揃えています。また、彼は、自らが着用する以外にも複数の甲冑を保有し、さらに、盾を持ち、馬に乗っていたことも知られています。5世紀の王様は、最新の兵器で身を固めた戦闘マシーンといったところでしょう。ところで、新開1号墳の王様は、古墳全体で3面の鏡を副葬していました。北棺の径8.4㎝の五獣鏡(ごじゅうきょう)と径13.7㎝の盤竜鏡(ばんりゅうきょう)、南棺の径19.5㎝の画像鏡(がぞうきょう)です。いずれも日本国内で生産され、特に盤竜鏡と画像鏡は仕上がりもよく、5世紀中頃を代表する鏡とされています。鏡は弥生時代以降、王様の重要な所有品とされ、祭祀や儀式の場で使用されました。古墳時代前期には大量に古墳に納める風習が発達しますが、それとともに、最新・最良の鏡を入手してそれを祭具とすることも、地域を治める王様たちにとって不可欠な責務となっていったのです。そうした点から見れば、武具で身を固めた強面の新開1号墳の王様も、武力で圧倒するだけではなく、当時最高級の鏡を手に入れて祭具として使用するという、地元への気配りも見せているのです。
このように、安土城考古博物館に勤務している三人の王様は、それぞれの活躍した時代の特徴的な容姿をしていますが、その内側には、その姿からは見えてこない異なる性格も合わせもっていたのです。このあたりは、博物館の展示をじっくり見ていただければ御理解いただけると思います。それはともかく、こうした複数の性格を持つ王様の存在は、たとえ王様といえども、一つの姿・立場だけではやっていけず、必要に応じて色々な姿や立場を使い分ける必要があったことを示しています。「王様もつらいよ。」そんな声の聞こえてくる逸品、じゃなく三人組なのです。

(細川修平)

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