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調査員のオススメの逸品 第245回 これも土馬、ちょっと不細工ですけど・・・-六反田遺跡出土土馬-

彦根市米原市

六反田遺跡は彦根市と米原市の境に位置します。奈良時代から平安時代の集落遺跡です。しかし、この遺跡は通常の集落遺跡ではなく、公の機関(役所)に準ずる施設が置かれていたと推定されています。当然、そのように推定されているには理由があります。その大きな理由は、すでにこの調査員の逸品で紹介した木簡(№58)や人形代(№65)存在です。古代の木簡や人形代は、どの遺跡でも出土するわけではなく、特定の性格をもった遺跡(=役所)に限ってしか出土しないからです。木簡は字が書けたり、読めたりする人の存在を示し、人形代は当時の中央、平城京や平安京で行われていた特殊なお祭りに使われる道具で、ある種の作法が分かっていないとお祭りを催行できないことからやはり都とつながりの深さ示しています。

ここでは「木簡」「人形代」に並んで特殊な遺跡であることを象徴する遺物をもう一つ紹介したいと思います。それは「土馬」です。土で作った馬の形代です。これも人形代と並んで都で行われるお祭りの代表的なアイテムです。この土馬ですが、出土する場所が道路の側溝や川などの水に関わる遺構から出土することが多いことから、水にかかわるお祭りに使われたと考えられています。では、どのようなお祭りにつかわれていたのでしょうか。大きくは2説あります。一つは雨乞いに使われたとする説、もう一つは疫病を退散させるために使ったとする説です。雨乞い説では、馬を殺して雨乞いをする記載が『日本書紀』にみられることから、土馬は生きた馬の代替えではないかと考えたわけです。疫病退散説は、疫病をもたらす神が馬に乗ってやってくると当時の人は信じていたと文献に見られることから、その疫病神がやってこないように脚を折った馬を川に流したのではと考えたわけです。どちらもありそうで、確定しているわけではありません。

滋賀県内では、約90体(頭?)が出土しています。この「土馬」が面白いのは、同じ「土馬」と称される馬の形をした土製品でも、見た目ではっきりと分けることができる、2種類の馬が存在しています。一つは見た目がリアルさを追求したのか、それともあまり上手の作ることができなかったのか、ぼてっとした馬、もう一つは、しゅっとしたプロポーションの馬です(写真1)。この違いは、ばんえい競馬の農耕馬と中央競馬のサラブレッドのようなイメージの違いでしょうか。

写真2 六反田遺跡出土土馬
写真2 六反田遺跡出土土馬
写真1 宇佐山古墳群出土土馬(参考)
写真1 宇佐山古墳群出土土馬(参考)

ちなみに六反田遺跡で出土している土馬は、ぼってとした農耕馬の方です(写真2)。円筒形の胴体に竹を押し当てた竹管文と半分に割った竹で描いた沈線文の組み合わせで馬具を表現し、頭部には目を竹管文で表現し、手綱を沈線文で描いています。特徴は胴部の大きさに比して足が短く、頭部が小さいので、全体に非常にアンバランスでちんちくりんな印象を受けます。

土馬におけるサラブレッドと農耕馬の滋賀県における分布状況をみると、サラブレッドは現在の大津市域にほぼ限定でき、残りの地域は農耕馬です。西の方に目を向けると平城京や長岡京、平安京などの都ではサラブレッドが出土しますので、大津市域は滋賀県(近江国)においても都に準じる地域であった可能性が「土馬」から見えてきます。どうして同じお祭りを催行していたと考えられるのに、こんなに違うのでしょうか。同じお祭りの道具である人形代は都と地方で比較しても大きな違いはありません。不思議なものです。

字面は同じ「土馬」ですが、見た目がまったく異なる馬形代、ここでは農耕馬などと称して卑下していますが、よ~くみれば意外とかわいらしいと思いませんか?今風にいえば「ブサかわいい」逸品でした。

参考文献
・滋賀県教育委員会・公益財団法人滋賀県文化財保護協会(2013)『宇佐山古墳群』
・滋賀県教育委員会・公益財団法人滋賀県文化財保護協会(2013)『六反田遺跡Ⅰ』
・堀真人(2012)「滋賀県内出土の土馬について-律令祭祀を考える基礎作業-」『淡海文化財論叢』第4輯

(堀 真人)

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