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新近江名所図会

新近江名所圖會 第282回 安土城に次ぐ近江の名城 坂本城跡

大津市

戦国~安土・桃山時代に来日し、キリスト教の布教活動をおこなったルイス・フロイスは著書『日本史』の中で次のようなことを述べています。
「(前略)それは日本人にとって豪華壮麗なもので、信長が安土山に建てたものに次ぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」
「信長が安土山に建てたもの」とは滋賀県が誇る名城・安土城のことですが、その安土城に次いで豪華壮麗だと認識された「明智の城」すなわち明智光秀の城とはどこを指すのでしょうか。今回はこの「明智の城」についてご紹介していきます。

京阪石山坂本線の松ノ馬場駅を降り、琵琶湖側に向かって歩くこと約15分。琵琶湖岸近くを南北に走る西近江路を右折し、しばらくすると左手に東南寺というお寺があり、その前に「明智の城」の石碑が見えます。写真1の石碑のとおり「明智の城」というのは坂本城のことを指します。

写真2 明智光秀像
写真2 明智光秀像
写真1 東南寺前の「坂本城址」碑
写真1 東南寺前の「坂本城址」碑

坂本城は元亀2年(1571)、織田信長の家臣・明智光秀により築かれました。東側に琵琶湖、西側に比叡山が控える坂本の地に築城した目的は、信長による比叡山の焼き討ち後の延暦寺の監視、堅田など北方の在地勢力を抑え、琵琶湖の湖上交通と陸上交通を確保することにありました。坂本城の姿については上述した『日本史』のほか、『兼見卿記』(光秀と親交のあった公家の吉田兼見による日記)などの史料にも度々登場します。『兼見卿記』の元亀三年(1572)十二月二十四日条では、兼見が「於城中天主(守)作事」を見物し「驚目」したと述べていますが、ここで注目されるのが「天主(守)」の記述です。安土城以前に天主(守)を備えていた数少ない城の一つとして、その先駆性が注目されます。

「豪華壮麗」な姿を誇った坂本城でしたが、天正10年(1582)の本能寺の変の後、山崎の戦いで光秀が豊臣(羽柴)秀吉に敗れると、坂本城も攻撃を受け落城してしまいます。その後、坂本城には織田家重臣であった丹羽長秀が入り、再建に着手しました。長秀の後、城主は杉原家次、浅野長吉(長政)へと変わっていきますが、天正14年(1586)、大津城の築城に伴い坂本城は廃城となりました。資材の多くは大津城に転用されたと伝えられます。

再び現地の様子について話を戻しましょう。前述した写真1の石碑は城の二の丸跡近辺とされる場所に立っていますが、ここからさらに琵琶湖側に向かっていくと本丸跡に至ります。国道161号線沿いに「坂本城本丸跡」の石標があり、この近辺が城の中心部であったことがうかがえます。この地点では昭和54(1979)年~昭和55(1980)年に発掘調査が行われました。この調査では天正10(1582)の落城時のものと思われる焼土層を境に二時期の遺構が確認されています。多くの遺構は焼土層下のもの、すなわち光秀在城期と推定されるもので、礎石建物・石組溝・石組井戸などが見つかりました。残念ながら天主(守)に直接関係する遺構は検出されませんでしたが、天主(守)に葺かれていた可能性がある多量の瓦が井戸内などに廃棄された状態で出土しています。

「坂本城本丸跡」の石標から約200m南に進むと、坂本城址公園に至ります。ここには明智光秀の像が立っています(写真2)。やはり光秀人気は高いようで、私が訪れた際にも光秀像の前で写真を撮る方を何人かお見かけしました。公園から望む琵琶湖の眺めも素晴らしく、天気が良ければ対岸の三上山などを見渡すことができます(写真3)。

写真4 城址公園の案内板
写真4 城址公園の案内板
写真3 城址公園から望む琵琶湖
写真3 城址公園から望む琵琶湖

再来年の大河ドラマの主人公が明智光秀に決まったこともあり、坂本城は今後ますます注目を集めるスポットになると思われます。大河ドラマの放映に先駆けて皆さんもぜひ足を運んでみてください。

◆周辺のおすすめ情報
第114回でも紹介されていますが、東南寺前の石碑から北へ20分ほど歩いたところにある聖衆来迎寺の表門は坂本城の城門を移築したものとされています。
坂本城の現存する遺構として貴重なものですので、併せて見学いただければと思います。

◆アクセス(東南寺前の「坂本城址」石碑まで)
公共交通機関:京阪石山坂本線 松ノ馬場駅下車 徒歩15分
自家用車:大津ICから17分

(山口誠司)

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