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新近江名所図会

新近江名所圖會 第374回 弘文天皇の足跡をめぐる―大津市膳所茶臼山古墳(前編)―

大津市

近江三大古墳の一つ-膳所茶臼山古墳(ぜぜちゃうすやまこふん)
前期古墳としての膳所茶臼山古墳については、すでにこの新近江名所圖絵で紹介されています(新近江名所圖会第311回)。そこでも紹介されているように、膳所茶臼山古墳は、滋賀県内で、その規模(全長)が100m以上の前方後円墳で、同じく100m超の前方後円墳である近江八幡市安土瓢箪山古墳・彦根市荒神山古墳とともに、「近江三大古墳」と呼ばれることもあります。これら「近江三大古墳」は古墳時代前期頃に相次いで築造されましたが、今回は、そうした前期古墳としての膳所茶臼山古墳ではなく、築造されてからずっと時代が新しくなってからの弘文天皇のお墓とされていることに着目したいと思います。
悲劇の天皇-弘文天皇(大友皇子)

写真1 膳所茶臼山古墳全景(側面から。左側が後円部、右側が前方部。)
写真1 膳所茶臼山古墳全景(側面から。左側が後円部、右側が前方部。)

弘文天皇、というより大友皇子と申し上げた方が分かりやすいかもしれません。大友皇子は天智天皇の第一皇子で、お母さんは伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)でした。天智天皇の後継者として、天智の逝去後に後継者となりましたが、その後に勃発した壬申の乱において叔父である大海人皇子(天智天皇の弟であり、後の天武天皇)に敗北します。その最後を『日本書紀』は次のように語っています。「大友皇子、走(に)げて入らむ所無し。乃ち還りて山前(やまさき)に隠れて、自ら縊れぬ。時に左右大臣及び群臣皆散(あら)け亡(う)せぬ。唯し物部連麻呂、且(また)一二(ひとりふたり)の舎人(とねり)のみ従えり。」(天武天皇元年条)
この記事によると、大友皇子は負け戦で逃げようとしたが逃げおおせるところもなく、「山前」という場所で自害したこと、そのさいにはわずかに少数の舎人しか付き従っていなかったこと、がわかります。
大友皇子のお墓の所在をめぐって
この大友皇子のお墓―つまり弘文天皇陵については、現在は大津市役所背後にあり、宮内庁によって「弘文天皇長等山前陵(こうぶんてんのうながらのやまさきのみささぎ)」(以下、現「弘文陵」とします)として管理されています。この陵墓については、すでに名所図会第186回で紹介されていますので、ここでは詳細をはぶきますが、少々問題になるのは次のようなことです。
大友皇子は、天智天皇没後に短期間のうちに亡くなったため、はたして即位したのか明らかでなく、長らく正式な天皇として認められていませんでした。しかし、明治3年になって明治政府が大友皇子の即位を正式に認め、「弘文天皇」という諡号(しごう)を贈ったのです。となると、万世一系の皇統を奉じる明治政府としては、その根拠である歴代天皇のお墓を確定し、お祭りしなければなりません。そのため、その時点で明らかでなかった弘文天皇陵の所在を探索する必要がありました。そして、探索の結果、大友皇子と由縁ある場所の中から、長等山麓にあった「亀丘」と呼ばれる古墳が明治10年6月に政府によって「弘文天皇陵」に治定(じじょう:陵墓として定めること)されました。
この現「弘文陵」に確定するまでの間、他にもいくつも候補地が名乗り出ていました。例えば大友皇子の弘文天皇「山前」を「山崎」と解釈した京都府乙訓郡大山崎の山崎説がありましたし、大友皇子が敗戦後に密かに落ち延びたという伝承に基づいて、千葉県・愛知県等の県外にも複数の候補地が示されていました。滋賀県内でも現「弘文天皇陵」以外に候補地があり、その一つが膳所茶臼山古墳だったのです。
次回は伝「弘文天皇陵」としての視点からこの古墳についてひも解いていきます。

◆アクセス
【自家用車】 国道1号秋葉台交差点すぐ、駐車場あり。
【公共交通機関】 JR膳所駅を降りて南出口から茶臼山公園まで徒歩20分程度、もしくは京阪中ノ庄駅から徒歩10分程度。
(辻川哲朗)

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