記事を探す

新近江名所図会

新近江名所圖會 第361回 巨木が見守る湖岸の古社―大津市石坐神社(前編)

大津市
写真1 石坐神社本殿
写真1 石坐神社本殿


 石坐(いわい)神社は大津市西の庄に所在する神社です。大津市南部の市街地の中―なにを隠そう、当方の住まいのすぐ近所にあります。市街地であるものの、榎の巨木が繁茂する境内はいつも美しく掃き清められて、個人的にお気に入りの場所の一つなのです。そこで今回は、長い歴史をもつこの神社について、紹介することにしました。

■沿革
 社伝によると、石坐神社は、天智天皇年間(662~672)の大旱魃のおりに、現代の境内の南西約4㎞にある御霊殿山(ごりょうでんやま)山頂に怪火が立ち、山頂の御霊池より海津見神(わだつみのかみ)が現れ、旱魃を救ったことに始まるといいます。その後、朱鳥(あけみとり)元年(686年)に、山下の石坐野(あるいは石神)に遷され、社殿が建立されました。以後、八大龍王社(はちだいりゅうおうしゃ)と称していたようです。さらに、文永3年(1266)に湖岸の現在地に移り、現在の本殿が造営されたことが元禄5年(1692年)の棟札(むなふだ)写しから分かっています。なお、この写しには、神社名が捌宮(わけみや)と記されています。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である大津城攻略戦のおりに、わずかに本殿を残して炎上してしまいましたが、翌6年(1601年)に戸田一西(とだかずあき)が膳所城主になると、荒廃した本殿を修理し、再興に努めました。その後も、旱魃の雨乞いに霊験があったとして、歴代の膳所城主は境内の整備を進め、膳所城下の主要な五つの神社―「膳所五社」の一つとして藩の庇護を受けました。明治6年(1874)10月には神仏分離により八大龍王宮の社号を廃して、高木神社と改められました。さらに、同15年(1883)2月には石坐神社と改称し、現在に至っています。

写真2 本殿のやや西南にある榎の巨木
写真2 本殿のやや西南にある榎の巨木


■境内
 現在の本殿(写真1)は、鎌倉時代(文永3年(1266年))に建立されたとする棟札の写しが伝わっていることから、鎌倉時代の社伝建築の貴重な事例として昭和32年(1957年)に滋賀県有形文化財に指定されています。その際に解体修理が実施されましたが、約30年が経過した昭和63年・平成元年(1988・1989年)に再び解体修理が行われました。その構造は、滋賀県下の中世社殿に多い三間社流造(さんげんしゃながれづくり)であり、なかでも梁間(はりま)二間の身舎(もや)の前に一間分の庇(ひさし)が取りつく形態は最古例となります。
 さて、江戸時代の地誌である『近江輿地誌略(おうみよちしりゃく)』(寒川辰清(さむかわとききよ)編、享保19年)には、「八大龍王社」として本社が搭載されており、「高木宮」とも称したとされています。その由来は、境内に「一株の楠高さ二十丈(引用者註:約60m)許りなる」「霊木」があったからでした。さすがに約60mは少し盛りすぎのような気もしますが、かなりの巨木だったのでしょう。この「霊木」は、元禄元年頃の境内の様子を描いた「八大龍王宮地絵図」でも、本殿の南側に大木が示されているので、江戸時代頃には境内でひときわ目立つ存在だったと分かります。
 現在、境内には本殿のやや西南側に榎の巨木があります(写真2)。楠と榎という樹種の違いや、本殿との位置関係の違いからみて、現在の榎の巨木が、江戸時代に境内にあった楠の巨木と同じ木だとはいえません。しかし、現在でも巨木が境内を特徴づけているのは興味深く感じます。

 今回は神社の沿革、境内の様子の紹介でした。次回はおすすめポイントをご紹介します。
(辻川哲朗)
アクセス
【公共交通機関】
・京阪電車石坂線 錦駅から徒歩約5分(約400m)
・JR琵琶湖線 膳所駅から徒歩約9分(約800m)
【自家用車お車で来社】
・名神高速道路「大津IC」より約10分(約4㎞)

Page Top