新近江名所図会
新名所圖會第233回 お灸をすえる-伊吹もぐさー
一昔前は、悪いことをしたら「お灸をすえたろか」などと言われたものですが、今やそんな言い回しすら聞かなくなったように思います。私自身がお灸をすえたり、家族がしているのをみたことはありません。しかし、母に聞くと、自分が子どもの頃にはされたこともあるし、身近にお灸をする習慣があり、もぐさをまるめて据えるのを手伝ったこともあったそうです。昭和の半ばくらいまでは「お灸」「やいと」と呼ばれて親しまれ、鍼灸院での治療はもちろん、庶民が自分で出来る健康法として普通に行われていました。しかし、高度経済成長期に入った頃から急速に廃れ、今の若い世代には灸を知らない人も多く、当然、灸に使う「モグサ」についてもよく知られていないのではないでしょうか。そんなモグサを造る工場が今も滋賀県にあります。今回、そのもぐさついてご紹介します。
モグサは、ヨモギ類の葉から造られます。ヨモギはキク科の多年草で、本州、四国、九州の山野路傍に自生し、春の若葉を餅に入れるなど、よく知られた植物で、葉は艾葉(がいよう)と呼ばれ薬用にも使われます。この葉の裏の非常に細かい毛を集めたものがモグサです。
【モグサの製造工程】
⓵原草採集:初夏から夏期、ヨモギまたはオオヨモギを茎ごと刈り取る
⓶葉の分取:収穫後すぐに葉を扱き取る(むしり取る)
⓷天日乾燥:むしった葉を直射日光で乾燥させる。乾燥した葉は俵や大きな袋に詰めておく
⓸集荷:農協や業者が集荷して工場へ送り、工場で冬まで保管する。
⓹火力乾燥:重油や灯油を用いた乾燥室で徹底的に乾燥。
⓺粉砕:石臼で1~3回繰り返して挽き、モグサになる部分(綿毛)と不要部分(葉肉、葉脈、葉柄など)を分離する。
⓻篩過(しか):葉肉などの不要部分は粉砕されて粉末になっているので篩(ふるい)で除去する。モグサ(綿毛)は篩に残る。(「長とおし」または「円とおし」と呼ぶ円筒形に篩を使う)
⓼精製:篩に残ったモグサは、唐箕(とうみ)とよぶ、モグサ専用の装置(穀物用のものとは構造が違う)で精製し、微細な不純物を除去し、高級モグサに仕上げる。
⓽品質調整:その日の気候で製品の状態は様々なので、よく鑑別し、品質の同じものを調合する。
昔は田畑の畦や空き地などの草刈り等で刈り取ったヨモギがふんだんにあり、葉だけ選り分けて乾燥させたものをもぐさ屋などに売ることが、近隣の農家の副業として成り立っていました。近年は農家の兼業化、高齢化等に伴い、誰も選り分けて干すなどという手間のかかることをしなくなりました。原料の多くは中国、ネパールなどから輸入され、国産ヨモギはたいへん貴重になっています。
灸治療の起源は古く、中国の秦の時代に湖北省から出土した竹簡(竹の薄板に書いた文書)に灸に関する記述があることから、約2200年前には存在した療法のようです。日本には仏教伝来と同じ頃、朝鮮半島を経由して伝わったとみられ、欽明天皇の23年(562)、高麗から呉の人、知聡が帰化した際もたらした医書に、鍼灸の明堂経が含まれていたことから、その頃から、日本の鍼灸療法は始まったと考えられます。
古代においては『養老律令』や『延喜式』に熟艾(もぐさ)の記述が出てくるものの、当時、灸治療は貴族など上流階級に限られ、それも主に外科的治療に用いられたものと推測されます。鎌倉時代になり、はじめて武家や庶民に広まっていき、その後徐々に、灸は鍼とともに盛んになっていったようです。江戸時代になるとモグサが量産されたことを示す文書や、様々な史料が見受けられ、松尾芭蕉の『奧の細道』にも書かれるように、庶民が灸を使った療法に日常的に親しんでいたことが窺えます。
近江の産物としてモグサが載っている最初の文献は、元禄四年(1691)の『日本賀濃子(かのこ)』で、名物の部に「伊吹蓬艾」が挙がっています。その後、『本朝食鑑』『和語本草綱目』『鍼灸抜粋大成』『大和本草』等、各種出版物に伊吹モグサは登場するようになります。また、宝永六年(1709)、浄瑠璃でモグサ屋を登場させ伊吹モグサを宣伝したり、歌舞伎でモグサ売りを市川團十郎が演じて大当たりするなど、伊吹モグサはいわゆるブランドとして定着していたようです。
一方で、この頃には江戸の初め頃にくらべ、原料からの生産は近江では減ってきており、享保十四年(1729)の『一本堂薬選』には、看板は伊吹艾とあるが産地は美濃(岐阜県)と越前(福井県)と書かれています。この頃から天保年間にかけては、福井県大野市辺りが主産地となり、明治の初め頃は富山県が、また昭和初期には新潟県が主産地となり、平成の現在では高級モグサのほぼ百パーセント近くが新潟県で生産されています。
このように産地は変遷していくのですが、現在市販されているモグサは伊吹もぐさ・伊吹山七年晒・江州伊吹山名産等々、「伊吹」という文言を使用した商品が多く、そのブランド力は健在です。確かに、昔の一時期、伊吹山周辺がモグサの主産地でかつ品質も優れていたので、世間では「伊吹モグサ」と呼んでもてはやされました。いまも滋賀県には卸業者、モグサ加工業者が多いのですが、モグサは県外から仕入れており、下級モグサ、温灸用など低品質のものは中国から大量に輸入しています。
おすすめPoint
現在、一定規模以上のモグサ製造工場で操業しているのは、全国的にみても5ヶ所くらいしかありません。
今回寄せてもらった山正さん(株式会社山正)はそのうちの一軒で、工場を見学させてもらえます。ただし工場稼働時期の冬場は、大変な高温と粉塵のため、工場内の見学は受け付けていません。ただ、稼働していなくても工場内はヨモギの香りでいっぱいで、意外と気持ちよい空間です。サンプルのふわふわのモグサに直接触れられるだけでも、モグサを知らない人にとってはとても驚きの経験だと思います。日本に古くから伝わる伝統療法を支えるその技術を是非たしかめてみてください。
周辺のおすすめ情報
2016年3月に、旧「あざい三方市場」という地場産品特売所が道の駅「浅井三姉妹の郷」として生まれ変わりました。年中無休で、営業時間も長くなり、食事処も整備され、利用しやすくなりました。地場産農産物だけでなく、ここら辺りならではの名物菓子などもいろいろ取り揃えています。この道の駅限定の「やいとまんじゅう」、地元の菓子屋のよもぎ餅「よもぎばっぱ」、姉川古戦場名物「ちはらせんべい」等々は見逃せません。
(小竹志織)
※「ばっぱ」は浅井辺りの方言で蓬餅や大福餅のような餅のことを指すそうです。
アクセス
【公共交通機関】JR北陸本線長浜駅下車 タクシーで約30分または湖国バスで約60分「プラザふくらの森前」下車 徒歩1分
【自家用車】北陸自動車道長浜IC下車15分