新近江名所図会
新近江名所図會第216回 逃げる信長・追う長政「金ヶ崎の退口」の道(1)―保坂の石票
元亀元年(1570)織田信長は義昭を将軍に据えると、全国の大名に対して上洛を促しますが、名だたる戦国大名達が素直に信長の命に従うわけがありません。そこで信長は、まず、義昭をないがしろにしたと因縁を付け、越前の守護大名朝倉義影(あさくらよしかげ)を攻めるため、京都から進軍します。
「四月二十日、信長公京都より直ちに越前へ御進発。坂本を打ち越し、其の日、和邇に御陣取り。二十一日、高島の内、田中が城に御泊まり。二十二日若州熊河、松宮玄蕃が所に御陣宿。」(『信長公記』)
この越前攻めの際に起きた事件が、浅井長政の裏切りです。この裏切りにより信長は命からがら朽木街道を抜け、京に戻り、さらに鈴鹿を超えて岐阜城に帰城します(写真1)。この一連のできごとを「金ヶ崎の退口」といいます。
これから数回に亘り、信長の金ヶ崎の退口に関連する名所を紹介します。
まず、お話しの前提として、信長が越前に侵攻する段階の高島郡は、浅井長政の支配下にあったことを確認しておきましょう。そのため、長政と同盟関係にあった信長は、侵攻するときは、すんなりと高島郡を通過することができました。が、敦賀まで攻め込んだ信長の背後で長政は反旗を翻します。『信長公記』には、この時の様子を
「二十五日・・江北の浅井備前、手の反覆の由、追々、其の注進候。然れども、浅井は歴然御縁者たるの上、あまつさへ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからずの条、虚説たるべし、おぼしめし候ところ、方々より事実の注進候。是非に及ばずの由にて、金ヶ崎の城には、木下籐吉郎残しをかせられ、」(『信長公記』)
と記しています。まさに、青天の霹靂(へきれき)。絶頂の信長は奈落の底に落とされてしまいます。踏みとどまっても勝ち目はない。退却の決断を下した信長ですが、数日前に進軍してきた道は、長政の支配下にありますから、もう通ることはできません。若狭から京に帰る道もありますが、元から信長に対して反抗的な武藤・武田といった武家がこの道を押さえています。信長は朽木谷を通り京に帰ることを決断します。しかし、この時、朽木も長政の支配下に入っていました。信長にとって一か八かの選択でした。
◆保坂の石票(高島市今津町保坂)
琵琶湖方面から若狭に抜ける若狭街道と、若狭から朽木に抜ける朽木街道との三叉路に立つ石票です(写真2)。「右 京道」・「左 志ゆんれいみち(巡礼道)」という文字が刻まれています。「巡礼道」とは、西国二九番札所「松尾寺」から三〇番「生島宝厳寺」に向かう道であることを、「京道」とは、若狭の物資を京に運ぶ所謂「鯖街道」を示しています。
数日前、信長は巡礼道から若狭に入りました。順調に行けば、若狭から越前に抜け越前を手に入れた後は北国脇往還を通り、岐阜城に帰城するか、上洛して将軍に勝利の報告をしたはずですから、ここを通ることは無かったかも知れません。しかし今、焦燥と不安に駆られながらここに戻ってきました。信長の通る道は「右 京道」しかありません。しかし、この道も安全に通れる保障は何処にもありません。
この石票の傍らに立つと、その時の信長の青ざめた表情が目に浮かぶような思いがします。
では、なぜ長政は信長を裏切ったのか?これを明確に解説した方はおられないようです。ここで、私はその謎を琵琶湖との関係から解き明かしました。興味のある方は拙著『信長が見た近江-信長公記を歩く-』(サンライズ出版)を御覧下さい。
◆日本海との接点―保坂
今津町保坂は九里半越えで若狭に抜ける要衝地で、日本海と近江の接点に位置します。
集落には弁財天社、愛宕神社等の神社があり、村の人達の手により大切に御守りされています。この両社にある江戸時代に寄進された石灯籠の色が変わっています(写真3)。青とも緑ともつかない独特の色合いの石材が使われているのです。この石材は笏谷石(しゃくだにいし)と呼ばれる越前特産の石材で、北陸方面では広く使われていますが、近江では比較的使用例の少ない石材です。しかも、この灯籠のような大型品は余りありません。保坂の神社に立つ石灯籠は、日本海との接点という保坂の特質をとてもよく表している遺品といえましょう。
今回はひとまずここまでにします。
(大沼芳幸)