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新近江名所図会

新近江名所図會第225回 逃げる信長・追う長政「金ヶ崎の退口」の道 Ⅳ -葛川明王院と花折峠

大津市
葛川三の滝
葛川三の滝

【前回(223回)の続きです。長政の追撃から逃げる信長。朽木氏の協力を得て朽木街道へ無事入ることができました。信長の越前からの逃避行の4回目です。】

元亀元年(1570)4月、朽木元綱の助力によりここう虎口を脱した信長は、安曇川を遡り京に向かいます。やがて、明王谷の清流が目に入り、左手に華麗な神社と荘厳な寺院が見えて来ます。葛川地主神社(かつらがわじしゅじんじゃ)と葛川明王院(かつらがわみょうおういん)です。

葛川明王院
葛川明王院

◆葛川明王院・葛川地主神社

葛川地主神社
葛川地主神社

葛川明王院は、比叡山回峰行の祖として崇められる相応和尚(そうおうかしよう)が開いた不動明王の聖地であり、信長の時代には多くの参籠者で賑わっていました。
明王院の由緒は次のように語られます。「相応和尚が生身の不動明王にまみ見えんと比良山中をさまよ彷徨っていた時、シコブチなる神が使いを使わし明王谷を遡った処にか懸かる三の滝という霊瀑に案内をする。ここで7日間の不眠不休の修行をした相応の目に、滝壺から生身の不動明王が出現するのが見えた。喜んだ相応は不動明王に抱きつくが、それは桂の古木に変じてしまった。この古木に今見た不動明王を刻み、明王院と、延暦寺、いさきじ伊崎寺に納めたという。」

花折峠
花折峠
勝華寺水盤
勝華寺水盤

シコブチ神が相応を三の滝に案内したと云うことは、裏を返せば、比良の神がこの山を延暦寺に献じたことを象徴しています。信長は翌年比叡山を焼き討ちしますが、この時、朽木の山奥にまで及ぶ比叡山延暦寺の権威と力の大きさを感じ取ったのではないでしょうか。この時、信長は改めて比叡山と延暦寺を意識しました。どのように意識し、これが何故比叡山に結びつくのか?この謎は、愚書「信長が見た近江-信長公記を歩く-」で解き明かしました。読んでください。

相応和尚が感得したという不動明王を祀った寺院が葛川明王院です。古くから不動明王の霊地として貴賤の信仰を集めてきました。現在の本堂は江戸時代の建物ですが、近年行われた解体修理に伴う調査の結果、平安時代に遡る古材が多数使われていることが判りました。また、屋根も栩葺(とちぶき)という、厚さ1㎝以上の板材を重ね合わせる特殊な葺き方であることが判り、この技法で復元されています。因みに栩葺は、延暦寺根本中堂のような格の高い建物に使われる技法です。葛川明王院本堂は、延暦寺にとっても非常に重要な建物であったことが、建築の技法からも窺えます。
重厚な明王堂の本堂に対し、谷を挟んで建つ地主神社本殿は、檜皮(ひわだぶき)で葺かれた軽快なフォルムと華麗な彫刻で飾られた建物です。構造は三間社春日造という、近江では非常に珍しい大型の本殿で、ここにもこのエリアの神仏の格の高さが意識されていることが判ります。

◆花折峠と勝華寺

安曇川を遡るように信長の一行が進みます。おそらく、朽木元綱の手勢も信長に付き従ったことでしょう。現在の大津市仲平を過ぎたところから、街道は安曇川を離れ、峠にさしかかかります。花折峠です。峠の名前は、比叡山の回峰行者が、葛川明王院で修される「夏安居」に向かう際、不動明王に手向ける花(樒)を折り採ったことに由来します。この峠は、古くは、明王院が支配する聖地と俗界との境目として意識されていました。信長もまた、朽木谷を自分の命を救った聖なる空間として意識したかもしれません。

花折峠から望む比叡山
花折峠から望む比叡山

行者達は峠から比叡山を遙拝し、俗界に別れを告げ、神の空間に赴きますが、信長は、行者と逆のコースを辿り俗界に戻ろうとしています。山頂に立つと比叡の山並みが望まれます。「あの山の麓が京だ。帰れた。」。峠を京都側に下ると、明王堂に向かう行者が休息する勝華寺があります。信長も境内にある巨大な水盤から水を汲み、汗をぬぐい、安堵のため息を吐いたことでしょう。「覚えておれ!次は長政攻めだ!」

(大沼芳幸)

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