新近江名所図会
新近江名所圖会 第142回 「寝物語の里」―国境のムラ―
「寝物語」―“男女が同じ寝所で話をする”― このように連想するのが一般的かと思います。『千夜一夜物語』を思い浮べる方もいるかもしれません。そうした艶っぽい話とは少し違って、近江には「寝物語の里」といわれる場所があります。
「寝物語の里」は京都と江戸を結んだ江戸時代の幹線道路“中山道”沿い、近江国柏原宿と美濃国今須宿の間の宿から外れた国境付近に位置する「長久寺(ちょうきゅうじ)村」です。現在の行政区でいうと、米原市長久寺付近にあたります。「長久寺」という村の名は、以前あった寺院の名前に由来するともいわれています。また「たけくらべ」とも読まれ、周囲の山が背丈を比べたためとも、周辺の寺院の僧侶たちが学を競って“己がたけくらべ”と云ったからともいわれています。
「寝物語の里」という地名は、両国の国境に細い溝ひとつ隔てて並ぶ宿で寝ながらにして話せたことから生まれたといわれています。平安時代の終わりにあった平治の乱の後、源義朝を慕って来た常盤御前と江田行義、あるいは奥州へ逃げ延びた源義経を慕って追ってきた静御前と家臣の江田源蔵が、それぞれ夜更けに国境を挟んで隣り合う宿に居て、源平の戦いでの主君の活躍ぶりなどを話す会話から気付き、再会をよろこび夜通し語り明かした、という話も伝わっています。
かつての「寝物語の里」の様子については、絵画や書物からうかがい知ることができます。
江戸時代後期の『木曽路名所図会』には、近江側から見た「寝物語の里」の様子が描かれていて、「江濃両国境」と記された傍示杭の両側に、美濃国側の“両国屋”と近江国側の宿が立ち並ぶ様子が描かれています。家屋は、美濃側は瓦葺き、近江側はワラあるいは葦葺きの表現がなされています。
歌川広重の『木曽海道六十九次之内 今須』にも国境の様子が描かれていて、傍示杭「江濃両国境」のすぐそばには、「寝物語由来」と書いた看板が、ほとんど隙間なく並んだ2つの宿の間の軒先に吊るされています(少し脱線しますが、街道の話につきものの “木曽海道六十九次”や“東海道五十三次”などの浮世絵。かつて永谷園のお茶漬けのおまけに名刺サイズくらいの浮世絵カードがついていて、集めていた方、御存じの方も多いのではないでしょうか。当時は深い理解もないままでしたが、思えば高尚な?!おまけで、貴重な資料となったことと思います。今年は60周年で限定販売されたようです)。
さて、江戸時代後期の書物『近江輿地志略』には、長久寺村について、屋敷が25軒あって、5軒は美濃国、20軒は近江国にあること、両国の境には小溝一つがあると記されています。また、経済圏は美濃側は江戸を中心とした金本位制、近江側は上方中心の銀本位制であることや、言葉も5軒が美濃なまり、20軒が近江なまりと、はっきり違うことが紹介されています。小溝ひとつを隔ててこのように言葉も経済も異なるのに、隣り合う宿で寝物語が交わされる、なんとも面白い場所です。
おすすめPoint
司馬遼太郎氏の『街道をゆく24 近江散歩・奈良散歩』にも、この「寝物語の里」のことが書かれています。司馬氏は車で訪れたため場所を見つけるのに苦労したこと、見過ごした理由のひとつに、「いかに小溝と書かれていても、橋ぐらいあるだろうと予断していたのがよくなかった。」と、国境のやや大きな川という先入観があったことが記されています。実際は幅50㎝に満たない細い溝です。 また、「近世ではこの地名を知っていることが、京の茶人仲間では、いわば教養の範囲に属した」ともしています。これは、ひとつは美濃、もうひとつは近江の竹でつくられた茶杓がひとつの筒に収められ“寝物語”と名付けられていることを指します。銘の由来を知っていることが教養でした。司馬氏は先程の著書の冒頭でもとりわけ近江がたいそう気に入っていると述べていて、『国盗り物語』でもこの村を信長と濃姫の「寝物語」の話に登場させています。
司馬氏の著書の影響も大きいのか、ここを訪れて国境の溝をまたぎ写真を撮る人が多いようです。国境は河川やもちろん山や平地であることも多いのですが、ここのように国境からいきなり人家がある所はそれほど多くないかと思います。だからこそ生まれた「寝物語の里」なのですが、人々の遊び心とファンタジーが感じられますね。ちなみにこの国境付近は平成15年に滋賀県と岐阜県との共同で整備されています。それ以前には溝の脇にあった電柱が、それ以後はありません。同じ場所の写真があったら、電柱に注目してみてください。撮影された時期の目安になります。近江側の石碑の前には、“初代標柱基礎石”として整備前の碑の礎石がいまも残されています。
周辺のおすすめ情報
今須の岩窟
一昨年のNHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国』では、水川あさみさん演じる浅井三姉妹の次女「初」が登場しましたが、初の夫が京極高次です。高次は京極家(第17回参照)中興の祖ともいわれ、戦国期に衰退した京極家を再興した人物として知られます。幼少期には信長の人質となり、秀吉につき、家康につき、最後は福井県の小浜藩主としてその生涯を閉じる、波乱の人生を送ります。そんな高次ですが、初と出会う前、本能寺の変後に長浜城を攻めてしまったことで、秀吉に追われた時期がありました。その時、清瀧寺(せいりゅうじ)→柏原の民家→今須の岩窟→高島大溝→越前北庄へと逃れたとされています。このうち京極家の菩提寺である清瀧寺は、柏原宿の北西にある戦国期までの柏原の中心地・清滝(きよたき)に所在します(第17回参照)。そして近年、今須の岩窟が発見されました。入口は人がしゃがんでやっと入れる程の小さい洞窟で、落石や急斜面ということもあって、最近まで見つからなかったようです。
車返しの坂
今須宿を美濃側に少し行ったところにあります。もう少し東にいくと古代東山道の関所である不破関があります。不和関は東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに三関ともいわれ、畿内を防御するために特に重視されました。三関から東は東国または関東と呼ばれました。
平安時代の終わり頃の『新古今和歌集』には、この不破関を詠んだ“人住まぬ 不破の関屋の板庇 あれにし後は ただ秋の風”(藤原良経)という歌があります。知識人の間ではかつて活躍した不破関が荒れ果て、板庇から漏れ出ずる月の光に風情があると知られていました。そこで室町時代の終わり頃、一人の貴族・ときの摂政関白二条良基がわざわざ都から牛車に乗ってやって来たのですが、高貴な方がいらっしゃるのに見苦しいものをみせてはいけないと関屋を修理してしまったので、坂道を登る途中でこれを聞いた良基は興ざめに思い、“葺きかえて 月こそもらぬ 板庇 とく住みあらせ 不破の関守”と詠み、京に引き返してしまったといわれています。
東山道
江戸時代前期に中山道が整備されるまでの前身街道です。中山道とほぼ近接・平行するものの、場所によってはルートを変える箇所もあります。ところどころに、東山道(第17回)の一部が残されていて、現代の主要道のイメージからは随分細く感じられる道幅が体感できます。
ほかにも、中世の説話集 『小栗判官照手姫』 にまつわる「照手姫笠地蔵」、ヤマトタケルに由来する清水のひとつで、照手姫の手化粧の粉で白く濁ったといもいわれる「白清水」などがあります。「寝物語の里」は柏原宿と今須宿との間にあるので、どちらにもほど近く、宿場町の興味ある見所がたくさんあります。
アクセス
【公共交通】JR柏原駅から徒歩約20分。
【自家用車】北陸自動車道米原ICから約20分、または名神高速道路関ヶ原ICから約15分。
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(中川 治美)
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