新近江名所図会
新近江名所圖会 第177回 仏教の聖地のルーツ-大津市坂本廃寺-
「近江は仏教の聖地である。」などと書き出せば、「比叡山のことネ!」とか、「白洲正子も絶賛した湖北の観音像でしょ?」と、早とちりされる方も多いのではないでしょうか。もちろん、そうした数多くの仏教文化を否定はしません。しかし、今日のお話は、もう少し古いころ、飛鳥・白鳳と呼ばれる、今から1400~1300年ほど前の時代です。
飛鳥時代や白鳳時代の仏教と言えば、奈良・飛鳥と思われがちですが、この時代に近江に建立された寺院の数は約60ヶ寺、これは大和と河内に次ぐ多さです。この数は出土遺物で確認できる寺院跡を数えたもので、例えば聖徳太子開基などの寺伝による寺院は含んでいない、まさに「生」の数なのです。近江は豊かな国で、多くの渡来系氏族が活躍し、積極的に新しい文化を受け入れたことが知られています。仏教もそうした新しい文化の一つで、渡来系氏族が中心となり、数多くの寺院が建立されたと考えられています。
さて、こう言うことで、今回は古代寺院の中から大津市の坂本廃寺をご案内しましょう。坂本廃寺は、紅顔の美少年だった頃の私も参加していた昭和59年の発掘調査によって確認されました。大津宮よりも古い時代に渡来系氏族によって建立され、天武・持統朝期に大きく改修されたようで、発掘調査では寺域の北東隅部の溝と大型の掘立柱建物が見つかっています。また、平安時代の梵鐘鋳造遺構も確認され、その頃まで寺院が存続していた可能性もあります。
で、早速現地に行ってみましょう。と言っても、現地は田んぼ、住宅、アパート・・・・。全く古代寺院の面影はありせん(写真1)。また、よほど運がよくなければ、古代寺院を特徴づける瓦を拾うこともできません。では、どこに行くのか?遺跡から南東に約150m、石占井(いしらい)神社に行ってみてください。道路に面した石垣に、よく見れば塔の心礎が転用されているのです(写真2)。わずかに円形に堀くぼめられた花崗岩の石材で、よほど注意深く観察しないとわからない代物です(写真3)。さらに、結構交通量の多い道路に面しているので、観察には充分な注意も必要です。決定的な証拠はありませんが、これこそ坂本廃寺の塔に使われていた心礎である可能性が高く、現状で坂本廃寺の存在を示す唯一の遺構、「一見の価値大いにアリ」です。
第35回で紹介した「ヘソ石」もそうですが、古代寺院の周辺には礎石や心礎が転用されていたり、近くの神社におかれていたりすることが、屡々見られます。古代寺院巡りでは、そういった「人知れずの遺構」を探すことも楽しみです。石占井神社の心礎は、そうした楽しみの入門に最適なものとしても、おすすめします。
周辺のみどころ
坂本廃寺の近辺には、「郡園(こうその)神社」(写真4)・「倉園(くらすの)神社」(写真5)と言うお社があります。「倉園神社」は坂本の近代史の舞台ですが、今回は省略します。また、「八条(ハッチョウ)通り」と呼ばれる道もあります。いずれも「官衙遺跡」の存在を予感させるに十分な名前です。私は、この付近に「古代志賀郡衙」を想定し、改修後の坂本廃寺を郡衙付属寺院と考えていますが、論文にするには根拠が少ないので、ここにこっそり告白しておきます。また、伝教大師の生誕地と伝わる生源寺や紅染寺遺跡なども近くにあります。あるいは、伝教大師の仏教のルーツがこの坂本廃寺?・・・などと考え歩くのも楽しみ方です。
なお、ここまで来られたら、石積みの町・坂本を堪能されることと思いますが、全ての石垣に礎石が転用されているような気にるのは私だけでしょうか、十分なご用心を!
(細川修平)
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