新近江名所図会
新近江名所圖会 第186回 悲運の皇子 大友皇子の陵墓 -弘文天皇長等山前陵-
672年に勃発した壬申の乱は、日本古代史上最大の争乱としてよく知られています。いうまでもなく、大津宮を造営した天智天皇の没後、太政大臣であった息子の大友皇子と、吉野へと出家していた弟の大海人皇子の間に起こった皇位継承をめぐる争いです。
滋賀県や奈良県をおもな舞台として展開した両者の戦いは、大海人皇子側が優勢に戦を進め、勢多橋(せたばし:現在の瀬田唐橋)周辺で行われた戦いで最終的な勝利をおさめます。その後、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)で即位し、天武天皇となりました。一方、戦いに敗れた大友皇子は潰走し、「山前」(やまさき)という場所で自害した、と『日本書紀』は伝えています。この「山前」はどこなのか、大津市内に求める説や京都の大山崎町とする説などいくつかの候補地がありますが、確かな場所はわかっていません。
さて、大津市役所の西側には、この大友皇子とされるお墓があり、宮内庁によって「弘文天皇長等山前陵」として管理されています。
じつは、「弘文天皇」という諡名は、明治天皇によって大友皇子に贈られました。天智天皇の没後、短期間のうちに亡くなった大友皇子がはたして天皇位についたのか明らかでないので、長らく正式な天皇として認められていませんでした。しかし、明治3年になって明治政府が大友皇子は即位したことを正式に認め、「弘文天皇」という名前を定めて贈ったのです。そうなると、明治政府としては、弘文天皇の陵を探索して、それをお祀りする必要がでてきました。そこで、「弘文天皇陵」の探索が行われた結果、大友皇子とゆかりのある地域の中から、長等山麓にあった「亀丘」と呼ばれる古墳が明治10年6月に政府によって陵墓と定められ、現在の「弘文天皇陵」となったのです。
「弘文天皇陵」を定めるのに熱心に活動を行ったのが、第2代滋賀県県令(明治10年まで権令)籠手田安定(こてだ やすさだ)という人物です。県令とは、いまでいう県知事のこと。彼は、独自の調査・研究により、『弘文天皇御陵所在論』をみずから著して、「亀丘」こそ真の「弘文天皇陵」であるという自説を示し、政府にその旨を記した上申書を提出しました。
ちなみに、弘文天皇陵の南側にある三井寺境内には、「籠手田君頌徳之碑」碑が、駐車場近くの大門から金堂へと向かう途中の左手にあります。高さ3.48mもある大きな石碑ですが、この碑は籠手田氏の没後、滋賀県政の功績をたたえ、明治35年3月に有志によって建碑されました。
周辺のおすすめ情報
弘文天皇陵周辺には、国宝の神社本殿である新羅善神堂が西側にあります。この神社は、智証大師円珍が園城寺を開くとき、唐より帰朝したさいに出現した新羅明神が再び現れ、境内に鎮座したという創祀伝承が残されています。寺伝によれば、鎮座の年代は貞観2年(860年)のことと伝えています。現在の社殿は、足利尊氏の援助によって、園城寺の諸堂舎が復興されたさいに建てられたものといわれ、南北朝後半を代表する三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の社殿は今も見学することができます。
また、南側へ行くと大津市歴史博物館があります。博物館には大津の歴史や文化について、充実した展示を通してわかりやすく紹介されています。屋外には、穴太遺跡で見つかったオンドル遺構が移設されて保存されており、見学することができます。
アクセス(車・公共)
公共機関:京阪電車石坂線別所駅より徒歩5分。
自家用車:大津市市役所北側の道を西側へ100mほど進み、南側へ(駐車場なし)。
(中村智孝)
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