新近江名所図会
新近江名所圖会 第29回 忘れ去られた史跡 「明治天皇聖蹟」-長浜・慶雲館-
滋賀県には琵琶湖を取り囲むようにして、東海道・中山道・北国街道・西近江路などといった街道が静かな佇まいとともに残っています。街道は、近年の歴史ブームとも相俟って多くの方々が歴史を追体験する場ともなっています。
そんな街道を歩いていると、ある時はひっそりと、ある時はいかめしいくらいの大きさの標柱(記念碑)が街道の傍らに建っていることに気がつきます。街道を通じて江戸時代の雰囲気を追体験しに来たのに、その標柱には「明治天皇御聖蹟」の文字が。これはなぜ、どのような契機で街道沿いに建てられたのでしょう。今回はその標柱の由来について紹介しましょう。
徳川家を中心とする幕府という政治体制が崩壊したのち、薩長土肥の西国雄藩が中心となって形作られた明治新政府。新政府は、天皇を頂点とする新しい国家体制を再構築していきます。天皇が自ら政治を執り行うということになると、それまでの公家社会に取り囲まれた存在から民衆を統治する天皇としての機能付けが必要となってきました。いうなれば天皇を身近な存在として民衆に示す必要があったわけです。そのために行われたのが明治天皇と新政府の高官がともに全国各地をまわり、新たな統治者である天皇の存在を知らしめるための行幸(巡幸)という方策でした。
明治天皇の行幸が特に大規模に実施されたのは、明治5年(1872年)から明治18年(1885年)にかけて6回に亘って実施された地方巡幸でした。地方巡幸には、新政府の政治が一部の有力政治家たちによる恣意的な支配でなく、天皇の意思を奉じて政府が動いている、という状況を天皇と政府高官がともに動くことによって示すことに目的があったと考えられています。
このような天皇巡幸に備えて街道沿いでは、天皇が宿泊する行在所(あんざいしょ)・昼食を摂る昼餐所(ちゅうさんじょ)・休憩をとる御小休所(おこやすみどころ)が臨時的に整備されます。これらはすでにある学校・公共施設、寺社・民家(たいていは旧本陣)が利用されましたが、特別に個人宅を利用する場合は新改築したものもあります。
滋賀県は京都の隣接地という地理的条件から、明治元年の東京行幸以来、数度に亘って行幸が行われていますが、最も大規模な行幸は明治11年(1878年)の北陸東海巡幸でした。このときは福井県側から北国街道を通って滋賀県に入り中山道を南下、そして東海道経由で京都に至り、京都から東京への還幸は東海道から中山道を経て岐阜に至るというルートで巡幸しています。そのため、北国街道・中山道・東海道沿いにはそのときの足跡(以下「明治天皇関連遺跡」と記します)が残されていきます。
では、このような明治天皇関連遺跡は行幸ののち、どのように扱われていったのでしょうか。
じつは行幸の記憶というのは明治期後半以降になると、かなりばらつきがあったようです。地域独自(あるいは個人レベルで)で明治天皇関連遺跡を記念化して建碑するといった動きもあれば、全く行幸の記憶が地域から抜け落ちていた、ということもあり、すべての明治天皇関連遺跡が顕彰の対象にはなっていなかったことが窺えます。しかしながら明治期後半以降、郷土愛を育むための身近な素材となり得るとして、史蹟保存の気運が高まってきたこと、加えて明治天皇崩御という事態が併せて起こったこともあり、全国各地で明治天皇関連遺跡の保存と顕彰の動きが加速化します。それまで地域の歴史の中で、事象のひとつでしかなかった明治天皇の行幸が、社会状況の変化によって掘り起こされ、新たな価値付けが行われていったのです。
さらに、大正8年(1919年)には「史蹟名勝天然紀念物保存法」が成立したこともあり、大正末期から昭和初期にかけて本格的に明治天皇関連遺跡の史蹟指定(明治天皇聖蹟)が始まります。前述のように滋賀県下では明治天皇の行幸回数が多かったこともあり、明治天皇関連遺跡の史蹟指定件数は19件と全国規模で見ても多く(最多は新潟県の48件)、これらの指定地の大半に写真のような明治天皇聖蹟碑が建てられていきます。碑の建設にあたっては多少の国庫補助が出たようですが、予算規模が小さかったため、建設には地域でお金を出し合って建てています。また、碑文の揮毫についても東郷平八郎・近衛文麿のような著名人にそれぞれ揮毫を求めている場合もありますが、旧甲賀郡内の聖蹟碑のように同じ揮毫・碑の規格も統一しているものもあり、各地域の独自性に任されたようです。
さて、このように明治天皇の崩御以降、昭和10年代までに行われた明治天皇聖蹟の顕彰作業は、アジア・太平洋戦争の敗戦によって状況が大きく変わります。文部省が指定した明治天皇聖蹟は昭和23年(1948年)1月段階で全国に377件ありましたが、同年6月末に一斉に指定解除されます。
しかしながら、すでに建てられた碑の取り扱いについては、所有者や管理者の意に任されており、また撤去を望む場合については国庫補助がなかったことから、結果的に多くの聖蹟碑がそのまま残された状態で現在に残されたわけです。
このように指定解除によって史跡としての価値を失った明治天皇関連遺跡ですが、再び史跡等に指定されているものもあります。県内では草津宿本陣(史跡・草津市)、旧和中散本舗(史跡)・大角氏庭園(名勝・ともに栗東市)、福田寺庭園(名勝・米原市)、慶雲館庭園(名勝・長浜市)などは史跡もしくは名勝として改めて指定されています(登録有形文化財となった建造物もありますがここでは省略します)。これらは明治天皇関連遺跡という前提を外しても文化財の価値を見出すことができ、史跡等に指定されています。しかし、それらには歴史の陰に隠れてしまった、もうひとつの外伝ともいうべき歴史があったのです。
かつては文化行政の負の遺産としてとらえられがちであった明治天皇関連遺跡ですが、近年の研究では天皇の行幸・巡幸の政治性が歴史学的に明らかにされてきています。
地域に天皇が訪れたこと自体は歴史的な事実であり、そのことが地域の近代の歩みに無視できない影響があったことは間違いありません。そして、その事実に向き合うための場として、改めて旧聖蹟の史跡としての価値を再評価するべき時が来たのではないのでしょうか。
おすすめPoint
事例のひとつとして紹介した慶雲館庭園は若干事情が複雑です。慶雲館そのものは明治20年(1887年)2月の京都行幸に際して長浜での行在所として実業家浅見又蔵によって建てられたもので、当時庭園はまだ造られていませんでした。庭園は明治45年(1912年)に、行幸25周年事業として二代目浅見又蔵(又次郎)によって整備されたものなのです。造園は近代の作庭家として名高い植治こと小川治兵衞、もしくはその息子である保太郎(白楊)が作庭した可能性が高いと考えられています。
現在、慶雲館のすぐ傍らには北陸本線や湖岸道路が走り、住宅密集地に埋もれている観もありますが、当時は琵琶湖に接して眺望が開けていました。なお、慶雲館は「明治天皇長浜行在所」として昭和10年(1935年)11月に史蹟に指定されます(昭和23年6月に指定解除)。
慶雲館庭園が名勝として改めて指定されたのは平成18年(2006年)。地形に大きな起伏をつけた立体的な構成と、巨石を用いた豪壮な意匠、琵琶湖・伊吹山を借景としている点などが特徴とされており、近代日本における作庭の一端を伝える庭園の事例として評価されています。
なお、明治天皇聖蹟碑は東海道・中山道・北国街道を歩くと確認することができます。また、街道から少し外れた神社の境内などにも行幸(巡幸)に関連する碑が残されていることがあり、思わぬ発見をすることもあります。各地の碑を見比べて、地域ごとの取り扱われ方の差異などを比較してみるのも面白いかもしれません。
周辺のおすすめ情報
慶雲館では、毎年1月から3月まで、湖北に春の訪れを伝える長浜盆梅展が開催されます。慶雲館の向かいには長浜駅旧駅舎(現存最古の駅舎)があり、長浜鉄道スクエアとして整備・公開されています。
アクセス
【公共交通機関】JR琵琶湖線長浜駅から徒歩5分。
【自家用車】北陸自動車道路長浜ICから15分、駅前に公営駐車場あり
より大きな地図で 新近江名所図絵 第1回~第50回 を表示
(松室 孝樹)
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