新近江名所図会
新近江名所圖会 第35回 古代の石工の失敗作?-国分のへそ石-
大津市国分2丁目の国分団地内に「へそ石」と呼ばれる奇妙な石造品があります。
なかば土に埋もれていますが、直径1.5mの円形の平坦面が削り出され、その中央に出べそのような丸い突起がつくられているのがわかります。明治の終わりごろまでは、この石をたいまつで焼いて雨乞いを祈願していたといいます。
じつはこれは、古代のお寺や宮殿など大型瓦葺建物の柱の基礎として使われる礎石なのです。礎石のなかでも大型の部類に入る堂々たるものです。
へそ石がある場所の小字は洞(ほら)ノ前で、近くには洞山・洞神社などの字名や社名もあることから、これは奈良時代の759~762年に淳仁天皇の都として造営が進められた保良宮(ほらのみや)の建物に用いられたものと伝えられてきました。
国分から東方の瀬田川に向けてのびる台地上には、保良宮関連施設のほかにも平安時代の820年に近江国分寺格が与えられた国昌寺や国分尼寺などが集中して造営されました。晴嵐小学校と新幹線のあいだの台地上で行われた発掘調査では、保良宮や国分尼寺と関係するとみられる建物跡や築地塀跡、道路跡などが見つかっており、奈良~平安時代の土器や瓦などが多数出土しています。
はたしてへそ石は伝承にあるように保良宮に使われたものなのでしょうか。年代は、その形から奈良時代もしくは平安時代でも早い段階のものとみてよいでしょう。けれども大きさが問題です。宮殿建物はもちろん豪壮なものですが、それにしてもへそ石のサイズは大きすぎるように思われます。
これほど大型のものは寺院の塔の心柱を受ける心礎とみるのが妥当ではないかと思います。近在する遺跡で塔を備えていたと考えられるのは、近江国分寺とされた国昌寺しかなく、その場所は台地の東端、現在の雇用・能力開発機構滋賀センター付近にあったと考えられます。そもそも、へそ石がある付近は平坦地にとぼしく、宮殿や寺院が造営できる地形ではありません。それではへそ石はなぜ今の場所にあるのでしょうか。
おすすめPoint
へそ石から道路をはさんだ山の中には明治42年に建てられた「保良宮址」碑があります。このあたりの山中には巨岩の露頭がたくさんあります。なかには石を割るためのクサビ痕があるものもみられます。クサビの跡は新しいものと思われますが、このあたりは古代においても採石場であった可能性があります。
へそ石は、おそらく国分寺の塔心礎用に切り出され、当地で細部加工まで行われたものの、完成間際で割れてしまったか、大きすぎて運び出せなかったのか、何らかの事情で持ち出されることなく放置されたものなのでしょう。
周辺のおすすめ情報
北大路1丁目の西方寺の境内にも、国分寺のものと伝わる「へそ」のついた礎石が移されており、鐘楼の基壇や庭石に使われています。また、晴嵐小学校の敷地には「近江國分寺址」碑が建っています。
時代はずっと下りますが、へそ石の北東500mには、1690年に俳聖松尾芭蕉が大津に逗留した際の旧居跡である幻住庵跡があります。
アクセス
【公共交通機関】JR琵琶湖線石山駅下車 京阪バス国分団地行 国分団地バス停下車徒歩 南西100mの道路沿い
【自家用車】名神高速道路瀬田東IC・瀬田西ICから10分、駐車場無し(幻住庵のみ駐車場あり)
より大きな地図で 新近江名所図絵 第1回~第50回 を表示
(平井 美典)
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