新近江名所図会
新近江名所圖会 第46回 中世の薫り漂う湖辺の集落-菅浦-
琵琶湖北岸、葛籠尾崎半島の西側にある小湾に面した湖畔の平地から段丘上に立地する小さな集落、菅浦。
北側に山を背負い、北風が当たらず、琵琶湖の水温調節作用と相まって、冬が厳しい湖北地方のわりには暖かく、山の斜面ではミカンを栽培している、県下でも珍しい集落です。
「菅浦よいとこ夏冬なしで、びわとみかんの花が咲く」と歌われますが、山と湖に囲まれ人里から離れ、近年車の通る道が出来るまでは、急峻な山伝いの道を通るか、琵琶湖を経由して行き来するしかない「陸の孤島」でした。
しかし「高島のあどの水門をこぎすぎて塩津菅浦今かこぐらむ」と万葉集に詠まれているように、古くは塩津と並んで湖上交通の要衝として知られていました。また、天皇家に魚や作物を納める「供御人(くごにん)」の地位を早くから取得し、貢進の見返りとして湖上の自由な航行権を獲得し、琵琶湖一円で活躍したと伝えられます。
そして、ここ菅浦を語るには、鎌倉時代から明治に至るまでの集落のあゆみを記した「菅浦文書」に触れないわけにはいけません。
それには、土地の少ない菅浦の集落が所有していた、船でしか行くことができない隣の大浦に近い日指諸川の田地をめぐる話が書かれています。それは、大浦と血みどろの争いで、菅浦、大浦とも琵琶湖周辺の集落に援軍を頼んで戦いを繰り広げました。ときには湖上権についての争いから堅田と血みどろの戦いをおこなうなど、中世当時の菅浦の具体的な様子が記録されています。
そして、「菅浦文書」は中世のムラが「惣(そう)」とよばれる自治組織を結成し、自分たちの土地や権限を守るために行っていた、ムラの掟、合議制、司法制度、警察権などについて詳細に書かれています。そのことからも中世のムラの様相や経済活動、政治活動を解明する重要な史料であり、重要文化財に指定されています。現在は滋賀大学に保管され、一部の写しは地元菅浦の郷土史資料館でみることができます。
この集落の戸数は、明治期で104戸、永正15年(1518)で112戸、建武2年(1335)で72戸と、中世以来ほとんど集落の規模は変わっておらず、現在の屋号の四分の一が中世文書に見られます。また、中世当時、外敵に備えるとともに、ムラの掟を破った者は門の外へ追放されたという、草葺きの「四足門(しそくもん)」が集落の東西の入り口に残り、中世以来の伝統と景観を偲ぶことができます。
現在の菅浦は、静かでひっそりとした雰囲気が漂い、中世の面影が残るたたずまいと眼前に広がる琵琶湖を肌で感じられるとてものどかなところです。
おすすめPoint
◆須賀神社
古い歴史を持つ菅浦集落の氏神。もともとは保良神社と呼ばれ、明治42年(1909)に小林神社・赤崎神社を合祀し須賀神社と改称されました。
この地に隠れ住んだと伝えられる淳仁天皇を祀ったとされ、神社の裏山に淳仁天皇の御陵と伝わる塚があります。水屋から素足で参拝する氏子の姿もしばしば見られるそうです。
毎年4月第一土・日曜には鎌倉時代から続くという古式豊かな祭があり、神輿の巡行や稚児舞が見られます。
「菅浦文書」はこの神社に伝わる開かずの箱からみつかりました。
周辺のおすすめ情報
◆味どころ
菅浦あたりの北湖は、水深が深く水もきれいで琵琶湖の幸がおいしいところです。
とりわけこの近辺の湖は岩礁地帯で、他には生息しにくいイワトコナマズがいる所です。琵琶湖にいる3種類のナマズの中で一番美味ですが、市場出回ることはありません。ただこの近辺の民宿や料理屋さんでは、ごく稀に、捕れると食べさせてくれることもあります。
また菅浦は琵琶湖の北端に位置するものの、地形的な特質から比較的暖かく、ミカンやユズなどの柑橘類の産地です。大浦の『丸子船の館』やR8号線の『水の駅』などで菅浦産のミカンやユズ加工品などを取り扱っています。
アクセス
【公共交通機関】JR湖西線 永原駅下車、バスで15分
(路線バス以外に午後1:30以降、おでかけワゴンというマイクロバスも運行。事前に頼んでおくと駅着の時間にあわせ送迎も可能。)
問い合わせ先:有限会社 西浅井総合サービス
TEL&FAX:0749-89-0281
【自家用車】北陸自動車道木之本ICから車で25分
道の駅 あぢかまの里
(JR湖西線永原駅構内にある西浅井界隈の案内所。大浦、菅浦などへお出かけの際はここを利用すると便利です。)
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(小竹 志織)
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