新近江名所図会
新近江名所圖会 第317回 幻の近江のお茶を求めて(その1)
新茶が出回る季節がやってきました。最近はペットボトルのお茶が広く普及し、急須でお茶を淹(い)れたりする機会が減ってきましたが、時にはお茶を淹れたり点(た)てたりして、お茶の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
◆お茶の歴史
近江と茶の関わりは古く、延暦24(805)年、最澄が茶の実を唐から持ち帰り、近江に植えたのが日本での栽培の始まりと云われています。茶樹の原産地や日本での起源については様々な見解がありますが、現在日本で生育している茶樹の形質などが中国種に近いこと、日本の原生林にはその種の茶樹が自然に生育する条件が揃わないことなどから、中国大陸から何らかの形で渡来したものであるようです。
平安時代初期、日本に帰ってきた遣唐留学僧たち、とりわけ、在唐30年近くにおよんだ永忠とその周辺で、茶が飲まれていたことははっきりしています。『日本後紀』には、弘仁6(815)年、嵯峨天皇が唐崎に巡幸し、梵釈寺に立ち寄った際に、永忠みずから茶を献じた、とあります。その二ヶ月後には畿内および近江、丹波、播磨等の国に茶樹を植えさせ毎年朝廷に茶を納めるように命じたとの記事もみられ、茶の栽培がはじまっていたことがわかります。
また嵯峨天皇やその廷臣、最澄、空海などの入唐帰朝僧らの間で茶が飲まれたことは彼らの作った漢詩にうたわれ、この頃から上流階級に喫茶の文化が取り入れられたことがうかがわれます。ただ、その具体的な製茶方法や飲用法については資料が乏しく詳しくはわかっていません。
その後、律令制が崩壊し、茶の栽培状況は不明となりますが、耕作放棄された茶の木が人知れず山中などに残っていった可能性はあるかもしれません。
鎌倉時代になり、栄西が宋から茶の実と茶葉を粉末にしてお湯に溶かして飲む「抹茶」の飲み方をもたらすと、京都や奈良の大寺院の境内に茶園が作られ、寺院では茶がたしなまれるようになります。室町時代になると、喫茶の風習は寺院以外にも広がりをみせ、一方で千利休などが総合的な芸術文化「茶の湯」へと発展させました。県内の城跡や館跡などからは、お茶席に使う茶碗や茶道具、香炉、茶臼、花器などの出土品もみられることから、武家や富裕な支配階級を中心に喫茶文化がかなり定着していた様子がうかがえます。
江戸時代になると中国(明)から茶葉をお湯に浸して飲む、淹茶(えんちゃ)の飲み方が伝わり広まっていきます。現在、私たちが飲む「煎茶」と同様のものです。この頃、茶の産地として有名なのは宇治、大和ですが、近江は先にふれたように古くからの茶産地としての伝統、京都や大坂などの大消費地に近いこと、交通の要衝で、茶の栽培が難しい東北方面へも出荷が容易なこと、茶所としての先進地宇治に近く、技術移入が可能であったことなどから、宇治・大和に隣接する湖南地域をはじめ、茶の生産がさかんになり、江戸時代後半には茶の名産地の一つとして全国的にも知られるようになります。なかでも信楽や愛知川上流域の政所は良質の茶の産地として知られ、その品質の良さは現在でも群を抜いています。
幕末、安政五年(1858)に日米修好通商条約が締結され、翌安政六年(1859)にはオランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間にも通商条約が結ばれてからは、茶の生産状況は格段に変わっていきます。日本から輸出されたものは、第一に生糸、次いで茶、蚕卵紙、棉花、水産物、銅、木蝋などです。生糸は全輸出量の50~60%、茶がこれに次いで全体の7~20%を占めていました。茶の栽培は、京都、滋賀、三重、静岡など従来の産地で輸出向けの生産が増強され、さらに相模、武蔵など横浜に近い地域や東海地方でも新たに牧の原や三方ヶ原などに大規模な茶園が開拓され、岐阜、福岡、愛媛、熊本、千葉などでも輸出に参加する生産地が拡大しました。こうした中、滋賀でも新たな生産地が増えたようです。
現在、滋賀の茶の生産は静岡や九州などの産地に比べ生産量が少ないので、一般的には知名度は高くないのかも知れませんが、とても上質の茶が作られているところです。県内の茶所について紹介したいことは様々ありますが、次回(第318回)は、いまは忘れられた茶園について触れたいとおもいます。(小竹志織)
◆東近江市政所町