新近江名所図会
新近江名所圖會 第266回 蜂屋集落の心のより所―宇和宮神社―(栗東市蜂屋)
当協会では、滋賀県南部土木事務所河川砂防課からの依頼により、中ノ井川広域河川改修工事に伴う蜂屋遺跡の発掘調査を今年(平成29年)1月から実施していて、私は担当者の1人としてこの発掘調査に従事しています。蜂屋集落は栗東市北部に位置し、野洲川が形成した扇状地・氾濫平野に立地しています。また、蜂屋遺跡は縄文時代から中世にかけての集落跡として周知されていて、これまでに実施された発掘調査により、数多くの調査成果が上がっています。今回の新近江名所図絵では、調査対象地に近接して鎮座する、宇和宮神社(写真1)について紹介したいと思います。
社伝によると、宇和宮神社は養老元年(717)9月に領主物部玉岡宿祢国照(もののべのたまおかすくねくにてる)・国経(くにつね)父子が神託を受けて勧請したといい、倉稲魂命(うかのみたまみこと)・大山祇女(おおやますみめ)神・土祖(つちのおや)神の三神を祀っています。本殿は、大正2年(1913)4月に重要文化財に指定されていて、永正2年(1505)に棟上げしたことが棟木に記されています。建物の形式は、三間社流造(さんげんしゃながれつくり)で、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)です。庇(ひさし)に建具を入れて前室として、さらに向拝(こうはい)を付ける形式は滋賀県の中世の本殿に類例が多いそうです。向拝は、寛延4年(1751)の修理で柱・虹梁形頭貫(こうりょうかたかしらぬき)などが取り替えられています(写真2)。この本殿は、小高い土盛りの上に建てられているのですが、この土盛りは蜂屋古墳という円墳です(写真3)。ただし、この蜂屋古墳の詳細については、よくわかっていません。
境内社には大神宮社・八幡社・春日社・住吉社・稲荷社がありますが、このうちの八幡社は、この地を治めた土豪・蜂屋氏が勧請したとされています。蜂屋氏は清和源氏の一族で、八幡社は蜂屋氏の守護神であるといわれています。この蜂屋氏の居城として「蜂屋城」が宇和宮神社の南側にあったとの伝承がありますが、詳細はよくわかっていません。また、宇和宮神社に隣接して白鳳寺院「蜂屋寺」があったとの伝承もありますが、こちらについても詳細はよくわかっていません。
【おすすめPoint】
さて、現在実施している発掘調査では、古墳時代前期から江戸時代中期にかけての様々な時期の遺構・遺物が多数見つかっているため、古くから蜂屋集落が住みやすい場所だったことがわかります。そのなかには、宇和宮神社や「蜂屋城」・「蜂屋寺」に関連するのではないかと思われるものもありますので、それらについても紹介しておきたいと思います。
調査地の南部では、12世紀後半:平安時代末から鎌倉時代初頭にかけての溝や土坑などが多数見つかっていて、それらからは黒色土器椀や土師器皿が折り重なるようにたくさん出土しました(写真4)。これらは、宴会で使った食器を一括して廃棄したものと考えられます。宇和宮神社の近接地という立地を考えると、その例祭などで使った食器を、穢れたために神社に戻せないので廃棄したとも推定されます。また、16世紀後半:戦国期の井戸からは、燈籠の竿や基部が出土していて(写真5)、これらも宇和宮神社で使われていたものではないかと考えられます。
また、調査地の西部では、同じく戦国期の溝が見つかっています(写真6)。その規模は、幅約5.0m・深さ約1.5mと大規模なことから、城とは断定できないものの、在地土豪の館を取り囲む堀ではないかと考えられます。そのほか、「法隆寺式」と呼ばれる型式の白鳳期の瓦も、後世の遺構や遺物包含層から多数見つかっていることため、「蜂屋寺」の存在も推定されるところです(写真7)。しかし、寺院と判断できる遺構が見つかっていないので、こちらについては今後の発掘調査で関連遺構を見つけられればと期待しています。これらの調査成果の一部については、7月に地元の方々を対象に行った現地説明会で紹介させていただきました。
【周辺のおススメ情報】
北東方向へ約500mのところに、道の駅:アグリの郷栗東があります。地元栗東市産の農産物を直売しているほか、パン工房やレストランなども併設されています。また、「日本でただ一つの新幹線ビューの道の駅」でもあり、ホームページにはドクターイエローを見る方法も解説されています。もちろん、発掘調査現場も新幹線に隣接していますので、私もドクターイエローを見かけることがよくあります。幸せになれますように。
《アクセス》
【公共交通機関】JR琵琶湖線手原駅下車、西へ徒歩15分
【自家用車】国道1号線上鈎交差点から北へ5分