
新近江名所図会
新近江名所圖會 第424回 米原市山津照神社古墳―【「近江毛野臣」をさぐる2】
はじめに―近江地域の古代豪族「近江毛野臣(おうみけののおみ)」
近江地域出身の古代豪族の一人として、『日本書紀』継体天皇条に新羅征討将軍としてその名がしめされた「近江毛野臣」。『日本書紀』の記述によると、継体天皇21年(527)、「南加羅」等の再興のために韓半島南部地域に派遣されました。しかし、かの地で失政をかさねたため、継体天皇により本国に召還され、その帰路の途中、対馬で病死してしまいます。そして、その亡骸は船で運ばれて、故郷の近江に帰葬されました。
「近江毛野臣」の関連地・埋葬地をめぐって―複数の推定地
このように、近江地域の出身であり、故郷で埋葬されたと文献にしるされていることもあって、現在の滋賀県域には「近江毛野臣」に関連するとされる場所(関連地)や、そのお墓と推定される古墳等が複数存在します。なぜ一つではなく複数あるのかというと、『日本書紀』に埋葬地に関する詳細な記述がないこともあって、複数個所が候補地として推定されたからとかんがえています。
これらの関連地・推定地の中には、「近江毛野臣」に関連したり、彼が埋葬されたりしたことが確実かどうか、疑問をいだかざるをえない例もあって、「近江毛野臣」関連地やその埋葬地を確定することは正直困難です。その一方で、江戸時代や明治時代以降現在にいたるまでの、「近江毛野臣」が活躍したであろう古墳時代よりもずっと後の時代ではあるけれど、少なくとも、そのような時代にはそれらの場所が「近江毛野臣」の関連地や埋葬地であると当時の人々によって見なされていたことは間違いないでしょう。
そこで、これらの関連地や推定地をたどってみようとおもいます。前回(412回)では、大正時代に「近江毛野臣」の故郷が長浜市平方町に推定されていたことをしめす、平方町八幡宮にある石碑を紹介しました。今回は、その2回目として、「近江毛野臣」の埋葬地として推定する意見がある米原市山津照神社古墳を取りあげてみようと思います。
山津照神社
山津照神社古墳は、米原市内を西流する天野川の中流域、米原市能登瀬に所在します。集落の東端付近に式内社(平安時代に成立した法律の施行細則をまとめた『延喜式』にしるされた神社)である山津照神社が鎮座し、山津照神社古墳はその名のとおりこの神社の境内にあります。ちなみに、ご祭神は国常立尊(クニノトコタチノミコト)。神社は丘陵のてっぺんにあり、石段をのぼって鳥居をくぐると、広々とした境内にいたります(写真1)。何度も現地にうかがったことがありますが、いつ訪問しても神社の境内は美しくたもたれており、地元の皆様のふかい信仰心がうかがえました。さて、正面に本殿がみえますが、本殿にたいして左側には林がつづいています。この林中にあるのが山津照神社古墳です。

山津照神社古墳
山津照神社古墳は古墳時代後期頃の前方後円墳で、滋賀県史跡に指定されています。墳丘の全長は約46.2mですから、そんなに巨大な古墳ではありません。しかし、古墳時代後期頃には墳丘規模が全体的に小規模になる傾向がありますので、この時期にかぎれば、滋賀県内でも有数の規模の古墳といえます。参道からは茂みしか見えませんが(写真2)、古墳はほぼ全体が遺存します。

現地では、ぜひ林のなかに足を踏みいれてみてください。林のなかは意外と下草がなく、墳丘の形がとてもよくわかります。とくに側面から前方後円墳の形態を確認してみてください。前方部が後円部よりも高く発達した古墳時代後期の前方後円墳の特徴を明確にしめしています(写真3)。

山津照神社古墳は、明治15年(1882年)に神社の参道を広げる工事のさいに発見されました。前方部と後円部との接続部―くびれ部付近(写真4)で横穴式石室が見つかるとともに、その内部から多種多量な副葬品が出土しました。

これら発見の経緯や状況については、当時作成された文書(『古墳ニ関スル書類』)が地元にのこされており、ある程度うかがい知ることができます。それによると、石室内の奥壁には「石屋形」状の施設が存在したようです。「石屋形」というのは、奥壁に沿って石材で組みたてた平面長方形の遺骸安置用施設のこと。九州地域北・中部の横穴式石室に多くみられる埋葬施設の構造です。残念ながら発見後に石室が閉じられてしまったので、今は石室内の様子を観察することはできません。詳細はわからないのですが、もし「石屋形」であれば、九州地域からの影響があったとかんがえられます。このように、これらの文書は、古墳内部の詳細をしるうえで重要な手がかりとなっています。
その後、1994年(平成6年)には京都大学考古学研究室によって墳丘の測量調査と墳丘裾部付近の発掘調査が実施されました(小野山編1995)。発掘調査の結果、墳丘には埴輪(円筒埴輪や石見型埴輪等)が配置され、前方部と後円部との境付近にある施設(造り出し)付近からお供え用の土器(須恵器)等も出土しました。これらの埴輪や土器等の特徴から、古墳の築造時期は古墳時代後期中葉頃-おおむね6世紀中葉頃とかんがえられています。
息長古墳群
さて、山津照神社古墳の位置する付近には、ほかにも古墳時代前期頃の定納古墳群(森下他2005)や中期古墳甲塚古墳、古墳時代後期初頭頃の塚の越古墳、狐塚古墳群など古墳が確認されており、それらをふくめて息長古墳群と称されています(宮崎2000)。この息長古墳群は、坂田郡の古代豪族息長氏の首長墓とされることが多く、山津照神社古墳は、塚の越古墳に後続する首長墓に位置づけられるとともに、息長古墳群、ひいては坂田郡一帯では最後の前方後円墳とされています。
推定される被葬者像
明治30年(1897年)に作成された滋賀県内の社寺案内書である『名蹟図誌近江寶鑑』には、「息長王御夫婦ノ古墳境内ニ在リ岡山ト称シ」とあり(図1)、第14代仲哀天皇のお后である「息長帯姫」(神功皇后)の父である「息長宿祢王」のお墓と伝承されていたことがわかります。ただし、想定される古墳の築造時期からみて、「息長宿祢王」のお墓である可能性はほとんどありません。さらに、古代史学者である水谷千秋氏は、継体天皇の妃の一人である息長氏出身の「麻績娘子」の父「息長真手王」の可能性を想定しています(水谷2013)。

このように息長氏に関連する有力首長を被葬者として想定される一方で、考古学者である故森浩一氏(同志社大学名誉教授)は、山津照神社古墳の被葬者として「近江毛野臣」を想定しました(森1990)。築造時期から継体天皇のころに活躍した近江の有力首長の墓であるとみて、その候補として「近江毛野臣」を想定されたようです。しかし、上述したように山津照神社古墳に先行する首長墓の動向から、この地域には古墳時代前期以来、一定の集団が居住しており、それが6世紀以降に古代氏族としての息長氏につながっていくことをかんがえますと、山津照神社古墳の被葬者として「近江毛野臣」を想積極的に定することは難しいでしょう。
結論からもうしますと、山津照神社古墳の被葬者としては、古代史の立場からの推定にしたがって、息長氏の有力首長を想定しておくのが穏当でしょう。
おわりに
今回、近江毛野臣との関係をもとめて山津照神社古墳をおとずれてみましたが、結果としては、近江毛野臣との関係を積極的に見いだすことはできませんでした。とはいえ、山津照神社古墳はおそらくはこの地域に根を張った豪族―息長氏の有力首長のお墓である可能性が高く、近江地域における当該期の古墳の良好な事例です。車でないと少々見学しづらい場所にありますが、機会をみてぜひ一度見学されることをおすすめします。
次回も「近江毛野臣」の痕跡をたどって県内の遺跡をおとずれてみたいとかんがえています。
周辺のみどころ
近江はにわ館 息長古墳群から出土した埴輪の展示があります。
(住所)米原市顔戸281番地1 (電話)0749-52-5246
*開館日・時間等の詳細はHPで検索・確認してください。
アクセス
自動車では、名神高速道路「米原」ICより約20分。
JR東海道本線「醒ヶ井」駅から徒歩50分程度。
参考文献
小野山節編 (1995)『琵琶湖周辺の6世紀を探る』京都大学文学部考古学研究室
平川昌福(1981)「近江國坂田郡 53山津照神社」、式内社研究會編『式内社調査報告第十二巻 東山道1』皇學館大學出版部
水谷千秋(2013)『継体天皇と朝鮮半島の謎』(文春新書)文芸春秋社
宮崎幹也(2000)『息長古墳群1-遺跡詳細分布調査報告書-』近江町教育委員会
森 浩一(1990)『古墳から伽藍へ』(図説日本の古代5)中央公論社
森下章司・宮崎幹也・藤本史子・奥田智子・岩本崇・藤根久・植田弥生(2005)『定納古墳群』大手前大学史学研究所オープンリサーチセンター・近江町教育委員会
山尾幸久(2016)『古代の近江-史的探求』サンライズ出版株式会社
(辻川哲朗 調査課/【辻川哲朗の社会貢献活動】はコチラ)
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