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新近江名所図会

新近江名所圖會 第412回 小さな神社の大きな碑―長浜市平方町天満宮の「平方史跡顕揚之碑」―【近江毛野臣をさぐる1】

長浜市

○はじめに
 古代近江地域の各地には、さまざまな古代豪族が居住していたことが、残された文献史料から推定されています。和邇(わに)氏・息長(おきなが)氏等の名前をお聞きになったこともあるでしょう。ただ、多くの場合、その名は氏族までにとどまり、個人の名が判明する例はさほど多くありません。そうした中でも、奈良時代に成立した歴史書である『日本書紀』(にほんしょき)に記された「近江毛野臣(おうみけののおみ)」は、その名からも近江出身の古代豪族とみてほぼ間違いない人物の一人です。

○近江の古代豪族-近江毛野臣
 この近江毛野臣は、継体天皇の頃の新羅征討将軍として『日本書紀』に登場します。その記述の概要は以下のとおりです。

 当時、新羅に攻められた「南加羅」等を再建しようとして、継体天皇は継体21年(527)6月に近江毛野臣を征討将軍に任じて派遣しますが、ちょうどその折に勃発した筑紫国造磐井(つくしのきみいわい)の「反逆」のために渡海できませんでした。翌年11月に磐井が破れたため、同23年2月にようやく渡海して、新羅・百済と交渉にあたりました。その後、近江毛野臣は失政を重ねたため、継体天皇より本国へ召還され、その帰路の途中、対馬で病死してしまいます。その遺体は船に載せられ、故郷の近江に帰葬されました。『日本書紀』には、そのさいに近江毛野臣の妻が詠ったとされる次の歌が示されています。

「ひらかたゆ 笛吹き上がる 近江のや 毛野の稚子い 笛吹き上がる」

(「ひらかた」を経て、笛を吹きながら河を上る。近江の毛野の若殿が笛を吹いて河を上る。)

○埋葬地はどこか?
 以上のように『日本書紀』の記述によるならば、近江毛野臣は近江に帰葬されたことになりますから、近江地域のどこかに近江毛野臣の墓があるはずです。ただ、葬られた場所については、『日本書紀』には詳細な記載がなく、その場所を確定できません。そのこともあって、従来県内に複数の推定地が示されてきました。この場をかりて、そうした県内の推定地をたどってみたいと思います。今回は、その手はじめとして、長浜市の小さな神社にある石碑を取り上げます。

写真1 平方町天満宮全景

○平方町天満宮

 長浜市平方町の湖岸近く、旧北国街道沿いに神社-天満宮があります。この天満宮は、さほど規模は大きくないけれども、境内は美しく保たれており、地元の皆様の深い信仰心をうかがうことができます(写真1)。鳥居をくぐって、これまた小さな本殿に向かうと、本殿の右側に、本殿よりもはるかに大きな石碑が建っていることに気づきます。

写真2 石碑上部のタイトル

○「平方史跡顕揚之碑」

 この石碑は高さ約2.5mの板碑状を呈する大きなもので(写真2)、その一面の上部に「平方史跡顕揚之碑」という石碑のタイトルが(写真3)、その下方に次のような碑文が刻まれています。

「   東宮侍従長正三位勲一等子爵   入江為守篆額
         従五位勲五等文学博士 久米邦武撰文

淡海之平方者以湖岸泥汀元名平潟往古継体天皇任那興建使近江
毛野臣之郷里吹笛迎其喪舩比良賀駄即是也後置平方荘六荘村長
浜町等一帯之知皆属焉初為院御領尋被寄進延暦寺及日吉神社新
塔料所永為其領有境域百八十余町租入一千八百余石之多矣是地
兼水陸便要夙開交易市場京都之工技北陸之海産舟載馬駄負荷而
雲集霧散乎港頭延暦寺加意保護其利以故毎開市遐邇群衆塵至商
況殷盛為湖北閙熱場者八百余歳矣室町府之季羽柴秀吉恢張長浜
城悉徒平方商売于城下於是市場廃滅荘衙亦停其地化為稲田水汀
見蘆荻于風耳追憶古不堪黍離桑滄之感也今昭運興商平方有志者
相謀欲建碑天満宮側以顕揚史跡垂不朽是社本称犬上明神境内存
犬冢伝犬上君稲依別王之古語焉可謂得其所哉予美其篤古之志乃
蒐旧史文献鋪陳終始勒諸石
 大正十四年五月 官幣大社日吉神社宮司正五位笠井喬書」(写真2)

写真3 「平方史跡顕揚之碑」全景

○碑文の内容

 漢字ばかりが並び、読みにくいかもしれませんので、その概要を示しておきます。

「平方は湖岸泥汀の地であるので、もとは平潟といった。継体天皇のときの近江毛野の郷里である。のちに平方荘という荘園がおかれ、院領であったが、後に延暦寺に寄進された。全部で百八十町歩余りの土地があった。この地は水陸交通の便がよいので、市場が開かれて、交通の要衝となり、大変賑わった。しかし、羽柴秀吉が長浜に町をつくって以来、市場はなくなり、葦等が生い茂る土地となってしまった。そのため、昔の様子を後世に伝えるべく、平方の有志の者が天満宮の一角に石碑を建てたいと考えた。(後略)」

○石碑建立の経緯と目的

 この内容からは、往時の平方の様子を後世に伝えることを目的として、大正14年(1925)に地元平方の有志の発起により、入江為守(いりえためもり)が扁額を記し、久米邦武(くめくにたけ)が本文を書き、笠井喬(かさいたかし)が清書して石碑を建立したことがわかります。ちなみに、入江為守は明治から昭和前期にかけて活躍した貴族院議員・官僚・歌人、久米邦武は明治から昭和前期にかけての著名な歴史学者、笠井喬は日吉神社宮司で能筆家です。さらに、石碑の裏面には発起人として、世話人中川泉三(なかがわせんぞう)を筆頭に、42名の氏名が記されています(写真4)。付言しておくと、中川泉三は坂田郡柏原村に居住していた滋賀県を代表する郷土史家です。

写真4 裏面の発起人一覧

○「ひらかた」は「平方」か
 石碑表面の銘文をみて興味深いのは、この平方の地が「近江毛野臣之郷里」と解釈されている点です。その根拠は、先述した『日本書紀』の中に示された、近江臣毛野の妻の歌に出てくる「ひらかた」がこの長浜市平方町に相当すると考えた点にあるのでしょう。ただ、この歌については、近江毛野臣の亡骸を載せた船が葬送の笛を奏でながら近江に向けて淀川を遡上し、訃報を聞いた近江毛野臣の妻が「ひらかた」付近で船に出会い、悲嘆にくれて詠んだ歌として解釈され、歌の「ひらかた」は淀川沿いの大阪府枚方市と考えられることが多いのです。私も、「ひらかたゆ」の「ゆ」が「経由する」という意味の格助詞であり、「ひらかた」は到達地ではなく経由地とみるべきなので、石碑のような解釈は困難だと考えています。

○おわりに
 以上から、久米邦武が記したような「平方」と近江毛野臣との関係は見いだしがたい、という結論をえました。しかし、注目したいのは、近代になって、平方の方々が自らの故郷の歴史を振り返るさいに、『日本書紀』の記述にもとづき、近江毛野臣の郷里であると解釈することで、故郷を価値づけようとした点です。大正14年という時期に石碑建立を企図した意図については、まだ十分に説明できませんが、この地域の人々が過去を振り返り、現在のこの場所を位置付けようとする契機があったはずでしょう。この点は今後の課題にしておきます。

周辺のおすすめ情報
 現在のJR長浜駅から歩いて3分ほどの所に旧長浜駅舎や鉄道交通に関する見学施設があります。(新近江名所圖會第241回参照)

アクセス
JR長浜駅から徒歩15分程度。

<参考文献>
滋賀県立長浜北高校歴史部編(1974)『長浜の「歴史」』(歴史部機関紙『歴史』20・21合併号)

(辻川哲朗)

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