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調査員の履歴書

『インタビュー/調査員の履歴書』№21「社会人になって間もない頃の貴重な経験」

Q. 所属部署と名前を教えて下さい。

A. 調査課の宮村誠二と申します。

Q. 前回のインタビューでは、文化財や考古学に関わる仕事に就くことを目指したきっかけ、この仕事のやりがいや難しさ、当協会に就職してから経験した印象的な出来事について語っていただきました。

 宮村さんは前回インタビュー(『インタビュー/調査員の履歴書』№5)にお答えいただいた際、ご自身がこの仕事に就いたきっかけとして学生時代の経験や憧れが大きかったとおっしゃっていましたが、当協会には学生時代を経てすぐに就職されたのですか?

A. いいえ、私が当協会に採用されたのは大学院の修士課程を修了して6年が経った30歳のときなんです。

Q. そうなんですね。では、大学院修了から当協会に採用されるまでの期間はどのように過ごされていたのですか?

A. 長野県埋蔵文化財センターと埼玉県埋蔵文化財調査事業団で調査員をしていました。いずれも当協会と同じく県の出資により設立された法人調査組織です。

 長野県や埼玉県で私が調査を担当した遺跡については、『職員の活動』の調査歴一覧をご覧いただければと思いますが、時代としては旧石器時代から江戸時代まで、遺跡の種類も集落跡や古墳、城跡、堤防跡など様々な遺跡を発掘調査する機会に恵まれました。学生時代、近畿地方で学び、遠方の発掘調査現場に飛び出していく勇気を持てなかった私にとって社会人として歩み始めた20代の頃に近畿地方以外で様々な調査経験を積めたことは大きな財産となりました。その経験は調査員としての骨格形成にも大きな影響を与えるものでした。

写真1 北沢川の大石棒(長野県佐久穂町)

Q. 地元の滋賀県を離れて長野県や埼玉県で仕事をして良かったと思うことはありますか?

A. 最も良かったと思うのは、知識としては知っていた地域による遺構や遺物の違いを実際に自分自身が発掘調査を通して目の当たりにし、それを実感できたことです。

 各地域にその地域を舞台として繰り広げられた歴史があること、しかし、それらもそれぞれにつながりをもって存在していることを遺跡から教えられ、埋蔵文化財の調査・研究において広い視野を持つことの必要性を痛感しました。

Q. 他にも良かったことはありますか?

A. たくさんありますが、やはり、人との出会いですかね。

 長野県埋蔵文化財センターでは、新卒で就職して最初は右も左もわからない状態でしたが、多くのベテラン職員の皆さんに厳しくも温かくご指導いただきました。

 また、埼玉県埋蔵文化財調査事業団には同年代の職員が多かったので、その活躍に刺激を受けて自己研鑽に励むことができました。彼らからは今も刺激を受け続けています。この仕事では、横とのつながりが活きる場面も多いので、こうした地域を越えたつながりをこれからも大切にしていきたいと考えています。

Q. 長野県や埼玉県で印象的だったエピソードはありますか?

A. 発掘調査で用いる道具の種類や呼び方が地域によって違っていて戸惑った経験は以前に紹介しましたが、他には遺跡の標高についての思い出がありますので、紹介します。

写真2 北沢川の大石棒に抱きついた思い出の一枚(長野県埋蔵文化財センターに勤めていた頃)

 私は学生時代、京都府や福井県で発掘調査に参加していました。遺跡の標高は、大学構内の開発に伴い調査した平安京跡で40m前後でした。

 就職して長野県での最初の発掘調査現場が県東部の佐久市の遺跡でした。先輩職員からオートレベルを設置するよう頼まれ、基準点の標高を確認したところ、750m以上あり、1桁違うんじゃないかと驚くとともに、長野県に来たことを実感し感動した記憶があります。とても印象的な出来事でした。

 また、佐久穂町にある北沢川の大石棒を見て感動し、抱きついたことも思い出深い出来事の一つです(写真1・2)。この日本最大の石棒については概説書などで紹介されていたので以前から知っていましたが、「本当に立っているんだ」と感動したのでした。

Q. いま語っていただいた20代の頃の経験は今の仕事にも活かされていますか。

A. そう思います。うまくいった経験を積み重ねることは自信につながり、失敗した経験とそれを乗り越えた経験は自分を強くしてくれます。年齢を重ねるごと、求められるものは高くなりますが、経験値は高まる一方です。来たる40代に向けて30代の今、公私共に20代の頃にはできなかった様々な経験を積み重ね、成長していくことが大切だと考えています。

【宮村誠二の社会貢献活動】はコチラ

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